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ジョン・ダーマー(Jon Dahmer)―本名:ジョナサン・ダーマー(Jonathan Dahmer)[1]―は、アメリカ合衆国出身のプロレスラーである。
身長おおよそ185センチメートル、体重おおよそ105キログラム。得意技はサイトースープレックスやスパインバスター。ミシガン州の南部に位置するウェストランドという町に生を享け、やがてアイアン・マイク・シャープからの訓練を受けたうえで、1997年の9月20日にプロレスラーとしてのデビューを飾った。[1] 1999年の2月にコンバット・ゾーン・レスリング(CZW)のマットにデビュー。[2] さっそく2月13日に開かれたCZWの『オープニング・ナイト』において、ジョセ・リベイラ・ジュニアと組んでCZW世界タッグ王座を奪取。相方のジョセ・リベイラ・ジュニアとともにこの王座の初代獲得者となった。[3] その経歴の大部分を通してCZWを舞台に活動しつつ[1] 、2002年にはエディー・バレンタインと組んでCZW世界タッグ王座を再び、更には2007年にダニー・デメントと組んでまたもこの王座を獲得。[3] この年にあっては、『ファスト・フォワード』と題された、トーナメント・オブ・デスの番外大会に参戦しもした。これはトーナメント・オブ・デスへの自身の初参戦であった。[4] 2009年には同時期にCZWにデビューしたニック・ゲージとワイフビーターとともにCZW殿堂の栄誉を受けた。[2] PR |
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ジョニー・スミス(Johnny Smith、1965年8月7日 - )は、イギリス・ランカシャー地方のワーリントン出身のプロレスラー。身長180cm、体重112kg。本名はジョン・ヒンドレー(John Hindley)。
小柄ではあるが正統派のランカシャーレスリングの使い手であり、テクニシャンとして知られている。 来歴 [編集] 叔父にあたるエドワード・ベトリーからレスリングを教わり、1982年1月にジュニア・ロイヤルのリングネームで16歳にてデビューした。その後、ドイツに渡りジョン・サヴェージというリングネームで活動。 1985年、エドワード・ベトリーとスチュ・ハートとの繋がりでカナダのカルガリー地区を転戦した。この時期に同郷の先人ダイナマイト・キッドの教えを受けて、レスラーとしての基盤を作った。さらにデイビーボーイ・スミスの従兄弟であるというプロレス上の関係もこの時期に生まれ、リングネームをジョン・スミスに改名した。 ブルース・ハートを破り、カルガリー地区の英連邦ミッド・ヘビー級王座(Stampede British Commonwealth Mid-Heavyweight Championship)を獲得した。 1986年、クリス・ベノワを破って二度目の英連邦ミッド・ヘビー級王者に返り咲く。以後、ベノワとの抗争を繰り広げカルガリー地区でのレスラーとしての地位を確立する。また、英連邦ミッド・ヘビー級王座には通算して四回戴冠している。 1987年6月に新日本プロレスに初来日。その後ダイナマイト・キッドの誘いで、1989年2月からは全日本プロレスのマットに登場。以後、ダイナマイト・キッドとのコンビ(ニュー・ブリティッシュ・ブルドッグス)やデイビーボーイ・スミスとのコンビ(カナダ・コネクション)などで活躍した。 1991年4月6日にダイナマイト・キッドのパートナーとして小橋健太、菊地毅組を破り第54代アジアタッグ王座を獲得した。しかし一度も防衛を果たせず、4月20日の試合でカンナム・エキスプレス(ダグ・ファーナス、ダニー・クロファット組)に敗れて王座から陥落した。 日本では当初、カナダで用いていたアメリカン・スタイルのレスリングをこなしていたが、1995年ごろからゲーリー・オブライトのアドバイスでイギリスで用いていたヨーロピアン・スタイルのレスリングへ転向した。今までの全日本のリングでは見られなかった、『ジョニー・マジック』と呼ばれる独特のムーブが多数披露されるようになり(詳細は後述)、徐々に独自のポジションを築き上げていく。 1998年1月9日、ウルフ・ホークフィールドとのタッグでアジアタッグ王座12回連続防衛中の秋山準、大森隆男組を破り第63代アジアタッグ王座を獲得し、2度目の同王座獲得を果たした。その後2度の防衛に成功して、10月6日に本田多聞、泉田純組に破れ王座から陥落した。 また、8月にはジョニー・エース率いる外国人ユニットであるムーブメントに参加した。 1999年11月、ベイダーのタッグパートナーとなり、世界最強タッグ決定リーグ戦へ参加。当初は異色のタッグと見られていたが、ベイダーのパワフルなファイトとスミスのテクニシャンぶりが融合を果たし、3位の好成績を残した。これがスミスがトップ戦線に躍り出るきっかけとなった。 2000年1月、ベイダーとのタッグで小橋健太・秋山準組が持つ世界タッグ王座に挑戦するが敗退した。同年、全日本プロレスからエースの三沢光晴や小橋、秋山などの選手が大量離脱してプロレスリング・ノアを設立。外国人レスラーに対しての評価が辛いと言われる三沢が、スミスの実力を高く評価していたこともあり、スミスもノアへの転籍・参戦を奨められ、ノア参戦目前まで話が進んでいたが、結局は全日本プロレスに残留することとなった(その後もノア移籍の噂が何度もあがっている)。このことを三沢は、後々まで相当に悔やんでいた。 2001年1月14日、鼻骨骨折を負いながらも、太陽ケアとのタッグで川田利明、渕正信組を破り第43代世界タッグ王座を獲得した。同王座の防衛には三度成功し、7月14日に天龍源一郎、安生洋二組に破れ王座から陥落した。 2003年1月3日、小島聡が持つMLW世界ヘビー級王座に挑戦するが敗退した。 2004年3月17日にIWA・JAPANへの参戦が発表されたが、体調不良のためにキャンセルとなった。 心臓に不安を抱えているためか、現在はセミリタイア中である。英国紳士として知られ、控えめな性格でもあったスミスは、ギャラアップの交渉など馬場に一切しなかった珍しい外国人選手でもある。(ダイナマイト・キッドの著書より) 得意技 [編集] ランカシャー仕込みの腕殺しテクニックとパワーファイトを融合させたファイトスタイルが特徴。また、三沢光晴風のエルボーも試合中に多用していた。 ブリティッシュ・フォール ボディスラムで相手を抱え上げ、相手を仰向け状態で脚だけを着地させ、素早くリバースDDTに移行する。 ジョニーマジック アームホイップで相手を倒した後、スミス自身は相手の腕を取ったまま逆回転して、相手の腕にダメージを与える。テクニシャンとしてのスミスを象徴する技の一つ。 ジョニーマジックII 相手の片腕を両腕で掴んで、その状態で相手の背後へ回り相手の腕を逆手にした状態で絞り上げる。さらに腕をロックしたまま、その腕へ自らの肩を数度ぶつけた後、片膝をつかせてのチキンウィングフェイスロックに移行する。スミスクラッチとも呼ばれた。 腕極め式アバランシュ・ホールド 正面からハンマーロックの要領で相手の片腕を極めたまま仕掛けるアバランシュ・ホールド。受身を取り辛くすると共に、叩き付けた衝撃で腕にもダメージを与える。 ビッグ・ベン 相手の片腕を捻り上げつつもう片方の腕で相手を持ち上げ叩き落とした後、捻っていた腕へギロチンドロップを放ち痛めつけ、さらに両足で挟み込んでマウントポジションを取るように相手に馬乗りになって捻り上げる。 デスバレーボム パワープレート スミス流の変形式シットダウン・ジャンピング・パワーボム。 初期型はサンダーファイヤーパワーボムの要領で肩の上の方に相手を担ぎ上げてからの、ライガーボム。 中期型はサンダーファイヤーパワーボムの要領で肩の上の方に相手を担ぎ上げてからの、シットダウン・ジャンピング・パワーボム(ナイアガラドライバーと同型)。 後期型はシットダウン・ジャンピング・パワーボムと同型。 ジャーマン・スープレックス・ホールド スミスのものはブリッジが高いのが特徴。 ミサイルキック スミスは着地後に体のバネを使って飛び跳ねるように立ち上がる。ダイナマイト・キッドから受け継いだムーブであり、ヘッドスプリング式ミサイルキックとも呼ばれる。このあと、立ってきた相手に対しロープへ走ってラリアットを敢行するパターンが多い。 スキン・ザ・キャット 場外に放り投げられた際、トップロープを掴んでそのまま逆上がりの要領でリング内に戻るムーブ。 スミスが使用した場合は単純にロープ逆上がりと呼ばれることの方が多かった。 タイトル歴 [編集] 海外 英連邦ミッド・ヘビー級王座 通算四度戴冠 全日本プロレス アジアタッグ王座 第54代王者、防衛無し、パートナーはダイナマイト・キッド 第63代王者、2回防衛、パートナーはウルフ・ホークフィールド 世界タッグ王座 第43代王者、3回防衛、パートナーは太陽ケア |
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ジョン・ハガー(John Hugger、1977年4月20日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ジョージア州アトランタ出身。ジョニー・スタンボリー(Johnny Stamboli)、ジョニー・ザ・ブル(Johnny The Bull)などのリングネームで知られる。
体重180kgあるリキシをリフトアップするほどの怪力の持ち主。 目次 [非表示] 1 来歴 2 リングネーム 3 得意技 4 獲得タイトル 5 外部リンク 来歴 [編集] WCWのプロレスラー養成所であるWCWパワープラント出身で、ポール・オーンドーフによってレスラーとしての基礎トレーニングを受けた。 1999年、WCWのリングにてデビュー。WCWではビッグ・ヴィトーと共にイタリア系アメリカ人のタッグチーム「ママルークス」を結成、ジョニー・ザ・ブルのリングネームで活動した。その後2000年には、チャック・パルンボやショーン・オヘアらと共にNBT(ナチュラル・ボーン・スリラーズ)を結成して活躍。 WCW崩壊後の2001年にWWE(当時WWF)と契約。しかし、アライアンスのメンバーには選ばれず、同じくWCWから契約を交わした数人の若手選手(カズ・ハヤシ、ジェイミー・ノーブルなど)と共に、WWEのファーム団体HWAで再修行することになった。 2002年より1軍登録され、6月30日にジョニー・スタンボリーのリングネームでTVマッチにデビュー。以降はスマックダウン所属となり、ナンジオ、チャック・パルンボら同じイタリア系選手と共に、ヒール・ユニットのF.B.I.(フル・ブラッデッド・イタリアンズ、Full Blooded Italians)を結成。ジ・アンダーテイカーらと抗争する。この当時、自分の体格をはるかに上回るリキシをリフトアップするなどして観客の度肝を抜いた。 2004年11月4日にWWEを解雇され、その後は全日本プロレスにマスクマン「GREAT MUTA」として登場。ラブマシンズの一員として全日本プロレス本体と抗争する。本家グレート・ムタ対GREAT MUTAという異色対決が行われるも敗退。その後ラブマシンズから戦力外通告を受けたことにより、WWE時代のリングネームジョニー "ザ・ブル" スタンボリーとして全日本参戦。TARUと結託し、ヒール・ユニットのVOODOO-MURDERSを結成、初期メンバーとして活動。旧友チャック・パルンボとタッグを組むことも多かった。 全日本を離れてからは、メキシコのCMLLを中心に数々の団体で活動。その後IZWでレッドラムという怪奇派レスラーに変身した。 2007年7月31日収録のWWEスマックダウンにて、リングネーム不詳としてダーク・マッチに出場し、チャボ・ゲレロを破っている。なお、試合はレッドラムの姿で戦った。その後WWEから再雇用を持ちかけられたが、本人が断っている。 その後はレリックとしてTNAに所属していたが、2008年6月末にTNAとの契約を解消した。 リングネーム [編集] ハガーが用いたことがあるリングネーム レリック(Rellik) レッドラム(Redrum) ジョニー・ザ・ブル(Johnny The Bull) ジョニー・スタンボリー(Johnny Stamboli) ジョニー "ザ・ブル" スタンボリー(Johnny "The Bull" Stamboli) GREAT MUTA(全日本プロレス版)※2004年の世界最強タッグ決定リーグ戦からグレート・ムタ戦までの間マスクマンとして 得意技 [編集] ダイビング・レッグドロップ スイングDDT フォーゲット・アバウト・イット キス・オブ・デス(シシリアン・スライス) - チャック・パルンボとの合体技(パルンボのバックブリーカー+スタンボリーのセカンドロープからのダイビング・レッグドロップ) 獲得タイトル [編集] WWE WWEハードコア王座 : 3回 WCW WCW世界タッグ王座 : 2回(w / ビッグ・ヴィトー) WCWハードコア王座 : 1回 HWA HWAヘビー級王座 : 2回 |
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柳沼 寛香(やぎぬま ひろか、1981年9月23日 - )は、日本の女子プロレスラー。
福島県郡山市出身。LLPW所属 (現在メキシコ無期遠征中)。 身長 158cm、体重 61kg。 リングネームレヴン寛香としての活動で知られる。現在はリングネームをHIROKAと改め、メキシコマットで活動中。メキシコではボーイッシュなスタイルのルチャドーラの需要が少ないため、ショートだった髪を伸ばし、フェミニンなスタイルで戦っている。 夫はCMLLで活躍するミゼットレスラー、ペケーニョ・ダミアン666。 動物が好きで、メキシコでペットショップ「KENTA」を経営している。 経歴 [編集] 2002年9月18日、LLPW北海道礼文島・潮騒ドーム大会でデビュー。リングネームの「レヴン寛香」はこのデビューの地・礼文島から取った。 2006年6月10日、アレナ・メヒコでマルセラを下し、CMLL世界女子王座を獲得。10月13日にはレディ・アパッチェを髪切りマッチで下したものの、12月25日の再戦に敗れ王座から転落した。 2007年1月に久々に日本マットに登場し格闘美や無我ワールド・プロレスリングなどで試合をおこなう。 得意技 [編集] ムエルテ・デ・クリスト フルネルソンに捕らえた相手の体を軽く抱え上げ、自分が尻餅をつきつつ相手の体を前に倒し、うつぶせの状態で顔面を打ち付ける。 大車輪 カサドーラ |
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バンビ(1977年9月21日 - )は、日本の女性プロレスラー。東京都出身。KAIENTAI-DOJO所属。身長170cm、体重60kg。血液型O型。
「佑天寺うらん」という名でも活動(イラストレーターなどで)。 元DDTの「昭和」子。KAIENTAI-DOJOに移籍後、バンビとして再デビューした。 目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 3 入場テーマ曲 4 その他 4.1 テレビ出演 4.2 写真集 5 関連項目 6 外部リンク 来歴 [編集] 元々はとある女子プロレス団体の練習生だったが、対人恐怖症になってしまい自主退団。その後、DDTの練習生となる。 2002年 7月頃から練習生のまま試合を行うようになる。 2004年 1月12日の後楽園ホール大会で、スーパー宇宙パワー相手に正式にデビュー。その後、蛇光に拉致され「「戦闘員」子」としてファイトする。 2005年 1月、自分の道を歩むべく起死回生でDDTを退団。その後、KAIENTAI-DOJOの練習生となる。 5月21日、千葉県・Blue Fieldにおいて、対お船、中川ともか組戦で再デビュー(パートナーはアップルみゆき)吉田万里子のアドバイスで素顔でファイト、そしてバンビと名乗る。 2006年 3月の「息吹」から白のワンピースの水着でファイト。一部マスコミからは「ワンピ姫」と呼ばれる。 12月、旭志織、大石真翔、YOSHIYA、MIYAWAKIとヒールユニットΩオメガ結成。ヒールへ転向、黒長髪、ヒールメイク、ボンデージと「女王様」スタイルへ変貌する。 2007年 ケガにより長期欠場。その後週刊プロレスのレスラー名鑑にて家庭の事情で欠場であることが明らかにされた。 2008年 3月8日のBF大会に突如乱入。4月13日後楽園ホール大会で復帰。 5月4日、「ハードコアレディース 〜退かない女たち〜」で初の有刺鉄線デスマッチを行う。 復帰時から、ナチュラルメイクとなり、ファンからの「女王様」コールが浸透する。 週刊プロレス6月4日号にて、結婚ならびに前年11月に第一子を出産したことを公表。 2009年 得意のムチ攻撃で、ザ・グレート・サスケを手下にするなど功績をあげる。 得意技 [編集] ダイビングセントーン 「昭和」子時代の2004年8月1日に初披露、この技で木村ネネを破り初勝利を挙げる。フォームが金村キンタローの爆YAMAスペシャルに酷似。 ムーンサルトプレス バンビの使うムーンサルトプレスは、殆ど飛ばずに後ろにひっくり返る為、通常のムーンサルトに比べかなり低空である。そのため自分の頭がマットすれすれを通過するので、見ている側は一瞬「失敗したのではないか」とヒヤヒヤする。 シャイニング・ウィザード そんなムーンサルトプレスに代わり、最近はダイビングセントーンと共に2大必殺技として多用。背後から打ってくることもある。 ハリケーン・ラナ シャッターチャンス ハイキック。 入場テーマ曲 [編集] 「Hero」(Papaya)<「昭和」子時代> 「COME」(THE MACHINE GUN TV)※キングレコード「KAIENTAI DOJO 2」に収録 「Crystal Garden」(MARBLE TRAVELERS) その他 [編集] テレビ出演 [編集] プロレスKING(GAORA) 写真集 [編集] 「Stylish」(日本スポーツ出版社)※撮影は加納典譲、DVD付。ISBN 4903339041 |
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