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【2025/04/28 02:08 】 |
武藤敬司
武藤 敬司(むとう けいじ、男性、1962年12月23日 – )は、日本のプロレスラーで全日本プロレス代表取締役社長。神奈川県横浜市青葉区在住、山梨県富士吉田市出身。山梨県立富士河口湖高等学校卒業。闘魂三銃士の1人で、タレントとしてサラエンターテイメントにも所属している。「武藤塾」の塾長、山梨県の観光大使も務めており、『日本マット界の至宝』と言われる。血液型はB型。娘は子役で「マハリガールズ」メンバーの武藤愛莉。
目次 [非表示]
1 人物
2 来歴
2.1 少年時代からプロレス入門まで
2.2 入門から若手時代
2.3 アメリカ修行からブレイクまで
2.4 nWoジャパン
2.5 全日本プロレス参戦 - 史上初の六冠王者
2.6 全日本プロレス移籍から社長就任へ
2.7 古巣・新日本参戦、旧全日本四天王と交流
2.8 長期欠場からの復帰
3 グレート・ムタ
3.1 ムタの偽者、真似たキャラクター
3.2 ムタに関するエピソード
4 黒師無双
5 獲得タイトル歴
5.1 NWA
5.2 NWA地方団体
5.3 WCW
5.4 WWC
5.5 全日本プロレス
5.6 新日本プロレス
5.7 プロレス大賞
6 得意技
6.1 必殺技(フィニッシュ・ムーブ)
6.2 関節技
6.3 打撃技
6.4 組み技
6.5 その他
7 入場テーマ曲
8 人物
8.1 プロレスLOVE
8.2 総合格闘技への態度
8.3 膝の故障
8.4 俳優、タレント業、飲食店オーナー
8.5 番組・CM
8.6 試合以外でのエピソード
9 商品プロデュース
10 著書・関連書籍
11 その他参加作品
12 脚注
13 関連項目
14 外部リンク
人物

プロレスに必要なパワー、スピード、テクニック、センスを極めて高い次元で併せ持った選手として活動を続け、その素質故に「天才」「GENIUS」「平成のミスタープロレス」「Legend」「天才を超えた魔術師」などの賞賛をほしいままにして来た。アメリカでの実績から現在活躍している外国人レスラーの中にもファンは多く、彼らからは敬意を込めて「マスター」などとも呼ばれている。このことから、近年は「プロレスリング・マスター」という愛称が定着しつつある。
来歴

少年時代からプロレス入門まで
小学2年生のときに、ドラマ「柔道一直線」を見て柔道を習い始める。学年で一番背が高かったにもかかわらず、バック転やバック宙、鉄棒の大車輪を器用にこなす運動神経の持ち主であった。小学5年生のときには、柔道と並行して少年野球チームにも入り、エースで4番を任されている。
中学に入ると一度は野球部に入部するも、その後すぐに柔道部に転部。3年で初段黒帯。高校時代には、1年生のとき国体優勝、2、3年生のときにも国体に連続して出場する。高校卒業後は大学の誘いをすべて断り、東北柔道専門学校に進学。全日本ジュニア柔道体重別選手権大会95kg以下級3位。全日本強化指定選手にも選ばれる。この時に柔道整復師の免許も取得。
その後、佐山聡と繋がりのある接骨院でインターンの研修をしていた時に新日本プロレスに紹介され、1984年に入門することとなった。
入門から若手時代
同期の蝶野、橋本らと共に厳しいトレーニングの日々が始まる。船木誠勝、蝶野正洋らによると、入門3日ほどで山本小鉄に辞めたいと言ったことがある。スクワットの練習中、山本小鉄が「嫌ならやめていいんだぞ」と言ったところ武藤は練習を投げ出し、「辞めます」と言い放った。小鉄はたじろぎ、他の練習生であれば引き留めるはずもないところだが「お前、辞めるなんて言うな」と言ったという。共に練習していた蝶野は、「武藤が『あの逸材だから』相手がどう反応するか判っていて駆け引きをしていたようだ」と語っている。この時の様子などは闘魂三銃士の自伝「烈闘生」に詳しく書いている。
天性の運動神経とルックスから、早くから将来のエース候補と目され、ヤングライオン杯優勝を経ることなく海外遠征に出発、グレート・ムタの前身でもあるホワイト・ニンジャというリングネームで活躍。帰国後、「スペース・ローン・ウルフ」なるギミックで売り出される。当時はリング登場時のコスチュームに宇宙飛行士のヘルメット(そのスタイルの初期のみ着用、というより頭に被らずに手に携えてリングインするという感じであった)、ブルゾンタイプのガウンに胸元に“610”(「ムトウ」の意)と書かれていた。所々ラメの入った青いロングタイツに白いリングシューズで真っ直ぐのふさふさした頭髪は『ジャニーズ系レスラー』であると、プロレス雑誌に書かれた。ちなみにテーマ音楽は「ファイナル・カウントダウン」で、リングに入場する際はロープ間を跨ぐようなことはせず、鉄棒の前転をするような形でトップロープ上を宙返りしリングインする派手なパフォーマンスをしていた。ところが、当時新日本はUWFとの抗争真っ最中であり、おおらかなアメリカンプロレスを身に付けた武藤はファンの支持を得られず失敗。とはいえ、早い時期から藤波辰巳とのシングルマッチを実現するなど特別な扱いを受けていた。
アメリカ修行からブレイクまで
その後、再びアメリカ修行に出る。アメリカでは(ギミック上はザ・グレート・カブキの息子)「グレート・ムタ」としてNWA(のちWCW)に登場し、アメリカのプロレスファンに人気を博した。当時のアメリカでの人気は絶大で、グレート・ムタがスティングやリック・フレアーと対決するのをテレビで見てレスラーを志したアメリカ人レスラーも多い。 ちなみに武藤は帰国後も様々なコスチューム(後述)で「グレート・ムタ」を登場させた。
凱旋帰国と同時に赤、オレンジ色のショートタイツにコスチュームを変え、やがて人気・実力ともに絶頂期を迎える。(当時の実況担当の辻義就<現・辻よしなり>から「セクシーターザン」「ときめきバージンレッドの熱い風」と形容される)
新日本プロレスにおける武藤の絶頂期は1995年と言える。この年は2月にスコット・ノートンに敗れてスランプ状態に陥ったものの、5月3日、福岡ドームで当時最多防衛記録を樹立していた橋本真也を破って第17代IWGPヘビー級王者となった。8月15日、同じく橋本真也を破り、IWGP王者としては初となるG1 CLIMAX優勝者となった。さらに、10月9日東京ドームでの新日本対UWFインターナショナルの対抗戦のメインイベントでの高田延彦戦は、敢えてこの決戦用にドラゴンスクリューからの足4の字固めという古典的な技を復活させて勝利を収めた。これらの活躍が評価されて、同年のプロレス大賞MVP。なお、G1で優勝した際の副賞としてガウンを贈呈されたのをきっかけに、以後のビッグマッチにおいてガウンを着用するようになる(普段はTシャツ姿で入場)。
nWoジャパン
1997年2月、蝶野正洋率いるnWoジャパン(New World Order)からTシャツを渡されたり、背中に「nWo」とスプレーで書かれたりという演出などにより勧誘を受ける。4月12日の東京ドーム大会でグレート・ムタとして蝶野に勝利するが、試合後二人は共鳴し、WCWでのアメリカ遠征で正式にムタとしてnWoに加入。6月に正規軍の武藤として、当時王者だった橋本に挑むが敗戦。試合後、nWoジャパンの控え室に戻ったことから、本格的に正規軍を離脱する。その後のシリーズからnWoジャパンのムタとしてG1にも参戦するなど活躍したが、膝の故障や度重なるタッグマッチでの亀裂、試合前のペイントする時間が多忙などが重なったことから、ムタをやり切ることに限界を感じて、9月23日にはムタから武藤に変身(試合中に退場して数分後にペイントを落として戻ってくる)し、武藤としてnWoに加入。赤から黒のショートタイツに変わり、その後イラストや英語の文字が記入された黒のロングタイツを着用し、髭を伸ばして、黒バットなどの凶器を使って、黒スプレーで小原道由の背中に「犬」と書いた上でリング外へ絞首刑にするなど(犬事件)ヒールに徹した。
1998年7月、膝の手術から復帰した後、ムタとして渡米することになって髭を剃り、“ナチュラル・ボーン・マスター”(生まれながらの天才)と呼ばれるようになる。この直後、nWoジャパンの総帥であった蝶野正洋が負傷して長期離脱。武藤が軍団の舵を取り「I AM BOSS」と連呼するようになり、欠場明けの小島聡をnWoジャパンに勧誘、年末に行われたG1タッグも小島聡とのタッグで優勝し、そのインタビューでは、「これは俺が作り上げたnWoだ! 蝶野の名前は出さないでくれ!」と発言。1999年、第24代IWGPヘビー級王者となると、蝶野と武藤との関係はこじれた。蝶野は復帰後、nWoジャパンを脱退して独自のユニット「TEAM 2000」を結成した。以後、「nWoジャパン VS TEAM 2000」の抗争が勃発し、最終的に2000年、1月4日の東京ドームで武藤が蝶野に敗れてnWoジャパンは消滅する(しかし真相は本家nWoの権利を持つWCWとの契約が満了したためだといわれている)。なお、1999年は1年間王者に君臨した評価が認められ、プロレス大賞MVPに選ばれている。
全日本プロレス参戦 - 史上初の六冠王者
その後、武藤はWCWにグレート・ムタとして参戦。空港に着くなり、多数の報道関係者に取り囲まれ、アメリカ国内での人気はいまだに衰えをしらなかった。「あのプロレス史上最凶のヒールが帰ってきました」の賛辞で迎えられるが、バンピーロとのコンビで世界タッグ王座は獲得し、スティングと抗争を行ったりしたものの、WWF(当時)より移ってきたビンス・ルッソーらにより、試合の機会を満足に得られないまま帰国。ちなみに武藤の帰国直後にWCWは消滅している。
2000年12月31日の大阪ドームで開催されたINOKI BOM-BA-YE 2000で国内復帰(この間、武藤が猪木との対談DVDを出すなどしていたことから、蝶野が一時期、武藤までも猪木にとりこまれたか?と警戒感を示したこともあった)。高田延彦と一夜限りのタッグを組み、ドン・フライ、ケン・シャムロック組と対戦。この試合は高田のバックドロップでシャムロックより勝利。ちなみに武藤がスキンヘッドになったのはこの試合からである(後述)。
2001年より新日本プロレスに復帰。1月28日、全日本プロレス・東京ドーム大会に参戦して太陽ケアに勝利。以後、定期的に全日本に参戦することになる。団体の垣根を超えた超党派ユニット「BATT(BAD ASS TRANSLATE TRADING)」を結成する。武藤は新必殺技シャイニング・ウィザードを引っ提げ、史上初の六冠王者(三冠ヘビー級王座、IWGPタッグ王座、世界タッグ王座(当時のプロレス誌のグラビアに、横たわった武藤の胴体や顔にまで6本のベルトが巻かれた写真があった)。ただし三冠ヘビー級王座と世界タッグ王座は事実上それぞれ一つのタイトルであるので実際は三冠王者)となった。さらに全日本プロレスの年末恒例の大場所である世界最強タッグ決定リーグ戦も制して、同年のプロレス大賞MVPに選ばれる。10月には全日本のリングで新日本プロレス所属同士で蝶野正洋と三冠戦が行われた。新日本プロレス、全日本プロレスの主力ベルトで、その時点で保持していないのは過去に自らも保持していたIWGPヘビー級王座のみとなり、武藤自身も次の標的は「猪木イズムの継承者」藤田和之と示唆していたものの、既に格闘技路線への疑問を公言していたこともあり、遂に実現しなかった。
全日本プロレス移籍から社長就任へ
2002年1月、藤田和之を中心とした格闘技路線に重心を移した新日本プロレスでは自身のアメリカでの実績なども潰されることになると考え[1]、弟分の小島聡、ケンドー・カシン及び新日本プロレスの事務方スタッフの一部と共に 新日本プロレスを突如退団。2月26日に全日本プロレスに入団する。この時武藤は「全日本プロレスに骨の髄までしゃぶっていただきたいと思います。」という名言を残した。なお、この時本当は「骨を埋める覚悟で……」と言うつもりであったが、あがっていたせいで「骨の髄までしゃぶっていただきたいと思います」と言ってしまったのだという[2]。その他に馳浩からの勧誘もあったとされる。
移籍直後のチャンピオン・カーニバルでは初出場にして優勝を果たした。G1クライマックスとチャンピオン・カーニバルの両方を制覇したレスラーは武藤が初めてである(2005年には佐々木健介も達成)。 7月20日の日本武道館大会では、黒師無双⇒武藤敬司⇒グレート・ムタと1日3変化で3試合をこなして、すべて勝利している[3]。8月30日の日本武道館大会では、自らプロデュース興行を行った。10月には馬場元子社長から全日本プロレスの株式を譲り受け、オーナー兼社長となった。同年中には、K-1の石井和義と組み、エンターテイメントの要素を強く取り入れたプロレス「WRESTLE-1(レッスル・ワン)」という興行も行っている。
2003年には盟友・橋本真也率いるZERO-ONEに全日本プロレスの選手を率いて乱入。「全面戦争、やるのかやらないのかはっきりしろよ!」という言葉で宣戦布告する。この後、全日本プロレスとZERO-ONEは激しい抗争を繰り広げることになる。 また、4月29日に行われた「BAPE STA!! PROWRESTLING ZEPP TOUR」のZEPP FUKUOKA大会では覆面レスラーTHE APEMAN PLATINUMに変身した。
古巣・新日本参戦、旧全日本四天王と交流


全日本プロレスの武藤敬司(2008年)
2004年から他団体のリングに積極的に進出するようになる。2年ぶりに新日本のリングに上がり、1月4日にはボブ・サップとタッグを組み、蝶野&天山広吉に勝利。その後、10月9日には、付き人を務めた西村修と組み、棚橋弘至&中邑真輔と対戦したが敗れている。ZERO-ONEのリングでは、2月29日に大森隆男と対戦して勝利。4月25日には、橋本とタッグを結成して勝利を収めたが、奇しくもこれが最後となった。 武藤と並ぶ天才としてプロレスファンから対戦を熱望されていた三沢光晴との対戦アングルが開始された。(試合ではないがこれ以前に2001年にプレイステーション2用ソフト『オールスター・プロレスリング2』のCMとデモムービーの撮影で2人は共演している。また2人の対談は『リングの魂』(テレビ朝日)において実現している)。2004年7月10日に行われたNOAH東京ドーム大会で初対戦(三沢・小川良成組 vs 武藤・太陽ケア組)。この試合では敗れたが、「夢の続き、見ませんか?」と三沢にメッセージを送った。これがきっかけに加えて、小島の対戦直訴により、三沢は古巣である全日本プロレスへの参戦を果たした。10月31日、両国国技館での武藤敬司デビュー20周年記念興行において武藤は三沢とドリームタッグを結成。馳浩・佐々木健介組と対戦して勝利を収めた。
2005年5月14日、新日本・東京ドーム大会でロン・ウォーターマンに勝利。3年ぶりに挑んだ三冠戦に挑戦したものの、小島に敗北。その後、大相撲の横綱であった曙を呼び、プロレスラーとして育てた。その年の、最強タッグ準優勝に、プロレス大賞では最優秀タッグチーム賞にも輝いた。
2006年、年末の最強タッグリーグ戦には、闘魂三銃士とプロレス四天王のタッグとして川田利明と組み話題性があったものの、小島&天山広吉の「天コジタッグ」にリベンジされて敗退。優勝を明け渡したが、2007年1月4日の新日本・東京ドーム大会で8年ぶりに蝶野とタッグを組み、天コジタッグに勝利した。3月には3度目のチャンピオン・カーニバル優勝を果たし、7月の三冠戦(鈴木みのる)には敗れたが、年末の最強タッグリーグ戦では、ジョー・ドーリングと組んで、6年ぶりに優勝。
2008年1月3日、タッグリーグ戦に優勝した勢いで世界タッグ王座を獲得した。4月27日、新日本・大阪大会で中邑を破り、1999年以来となるIWGPヘビー級王者になった。8月31日には、全日本のリングで初めてIWGPヘビー級選手権試合が行われて、G1 CLIMAX2008優勝者の後藤洋央紀を破って防衛に成功。その後、準優勝者の真壁刀義、リベンジに挑んだ中邑に勝利して、4度の防衛に成功。三冠王者になったムタの活躍も併せて評価されて、7年ぶりにプロレス大賞を受賞した。
2009年1月4日、レッスルキングダムIIIで棚橋に敗れて5度目の防衛に失敗。3月14日、ムタとして高山善廣に敗れて三冠王座も失った。その後、サムライTVの企画で蝶野と対談。お互いにデビュー25周年興行を行い協力することになり、8月30日にデビュー25周年興行を開催。24年ぶりに同期生の船木誠勝とタッグを結成して、蝶野&鈴木みのる組に勝利した。
また、6月13日に三沢が急逝したため、ライセンス、コミッショナー問題を含めて、再びノアと交流。9月27日に5年ぶりにノアへ参戦。田上明と社長タッグを結成して、小橋建太と初対戦したが敗れた。10月12日に、蝶野のデビュー25周年記念試合で新日本、全日本、ノアによる6人タッグマッチが実現。武藤、蝶野、小橋がトリオを結成して勝利。これで旧全日本の「プロレス四天王」とすべてタッグを結成した。
長期欠場からの復帰
2010年3月9日、変形性膝関節症による右膝関節内遊離体除去の手術を行うことを発表し、4月5日に手術を行い成功。全日本に移籍してからは初めてとなる長期に渡り試合を欠場したが、9月10日、船木誠勝とのシングルマッチで復帰。試合は引き分けになるものの、欠場以前と変わらぬムーブを見せた。また、9月20日後楽園ホールではKAIとのシングルマッチに勝利。その日の世界ジュニアヘビー級王座戦の試合後にリングに上がり、最多の連続防衛を記録した王者のカズ・ハヤシに挑戦表明し物議を醸したが、翌日の会見で、「気分は(あしたのジョーの)力石。そこにカズ・ハヤシがいるから(挑戦する)」と、世界ジュニア王座への挑戦を正式に発表した。また、それに合わせて体重の減量も行われ、1ヶ月で約10kgの減量に成功して挑んだが敗れた。
グレート・ムタ

グレート・ムタは、ゲーリー・ハートによってつくられた忍者をモチーフにしたレスラーであり、武藤の「化身」であるが、武藤本人が「代理人」としてコメントをすることもある。設定上は、同じくゲーリー・ハートがマネージャーとなったザ・グレート・カブキの息子。正式なプロフィールによると、1989年4月2日・米国ルイジアナ州ニューオーリンズ出身である。カブキとは1993年に「親子」対決を、1998年には「親子」タッグを結成したこともある。ちなみに「ムタ」の由来は、「グレート・ムトウ」と外国人が「ムトウ」とうまく発音できないために、武藤自身が呼びやすい名前にした(ただし、現地のテレビでWCWを放送した際に、「Great Mutou」とテロップを出すところを誤って「Great Muta」と表示されてしまったことから始まるという説もある)。そのため日本での意味は「グレート・ムトウ」ということになる。設定上、英語しか喋れないはずだが、武藤が設定を忘れて日本語を喋ってしまうことがあった。
ムタの誕生はプエルトリコへ海外武者修行したときに遡る。修行先ではリングネームをスーパー・ブラックニンジャを名乗って活躍していた。この時にNWAのプロモーターの目にとまり、ゲーリー・ハートのアドバイスにより、顔にペイントを塗ったザ・グレート・カブキの息子、ザ・グレート・ムタが誕生した。そして1989年にWCWに登場(初登場時は忍者キャラで、入場コスチュームには「伊賀流」の刺繍が入っていた)、ムーンサルトプレスを必殺技にひっさげて、スティングやリック・フレアーとの抗争を経て人気レスラーとなった。日本初登場は1990年9月7日、大阪府立体育会館でのサムライ・シロー戦である。これ以後、年に何度か登場し、対戦相手を流血と毒霧地獄に追い込む凄惨な試合を展開している。


シャイニング・ウィザードを放つグレート・ムタ(2006年)
もともとは顔に毒々しくペイントをしていた。スキンヘッドになると一時封印して、後述の黒使(師)無双が武藤の化身として登場していたが、2002年に毒蜘蛛をモチーフとするSFX用ラバーマスクとペイントを組み合わせた新しいスタイルで復活させた(マスク制作は特殊メイクアーティスト、JIROによる)。その後、ジェイソン、デビル、ダース・ベイダー、海外遠征によるメキシコでの世界遺産、イギリスでの騎士、プエルトリコでのパイレーツ、中国をイメージしたコスチュームで登場。武藤本来のファイトスタイルとは正反対の毒霧・凶器攻撃・反則攻撃が非常に多いが、武藤自身の華麗な技も披露する。かつてはムタと素顔の武藤の差別化を図っていたのか武藤が得意とする足四の字固めなどは決して使用することは無かったが、復活後のムタは武藤が使用する技も頻繁に使用しするようになった。試合は必ずといっていいほど流血試合になる。
WCWでの活躍から、ジャイアント馬場と共に『本当の意味で、アメリカマット界で成功した日本人レスラー』とも言われている。未だもってアメリカでの人気は高く、人気・知名度共に日本人レスラーの中でトップと言えるほどである。
2008年、全日本所属だった雷陣明がトライアウトを経て、KIYOSHIのリングネームでTNA所属となった際に、KIYOSHIのプロモ映像で武藤とスティングが出演し、スティングはかつて武藤と戦ったことに触れながらKIYOSHIに期待するコメントを送り、ナレーターもムタの弟子であることを強調するなど、現在でも影響力の大きいことが窺える(そのKIYOSHIもムタを彷彿とさせる黒いフェイスペイントで活躍している)。
ムタの偽者、真似たキャラクター
グレート・ムタには偽者が登場している。2002年10月に新日本プロレスに初登場し、2004年11月には全日本プロレスに登場した「GREAT MUTA」である。どちらもムタと違い全身コスチューム系覆面レスラー(一応ペイントもしている)で、どちらも同じコスチュームだが中身は別人である。 武藤敬司自身は偽者に嫌悪感を抱いており、全日本プロレス版が2004年に登場した時はグレート・ムタ対GREAT MUTAの直接対決を行ってこれを打ち破っている。その後、この偽MUTAはマスクを脱いで素顔のジョニー・ザ・ブル・スタンボリーとして参戦、VOODOO-MURDERSを結成している。
なお、2002年に新日本に登場したMUTAは、正体を明かしておらず不明である。
また、別レスラーのバリエーションとして元キングスロードの宮本和志はグレート・カズシ、大仁田厚はグレート・ニタ、小島聡は愚零斗孤士(グレート・コジ)、TARUはグレート・ルタ、曙はグレート・ボノ、吉江豊は具冷斗油太(グレート・ユタ)、竹村豪氏はグレート・タケとしてリスペクトしている。また、カブキ本人が新たに連れてきたカブキシート等が存在する(女子としては工藤めぐみが同系統のキャラクターに扮したことがあったが、予告無しであったためリングネームはそのまま。後付けで「女愚魅」と呼ばれることはある)。ただしカブキ直系(本人が連れてきた等)のギミックはムタとユタ、タケとカブキシートの3人のみである。
ムタに関するエピソード
ムタの顔にはしばしば「炎」や「忍」などの漢字が書かれているが、これは武藤が鏡を見ながら自ら文字を書いているため、「忍」の字が裏文字になっている。(NWA時代は「忍」「者」であった)
1993年1月4日に蝶野からNWA世界ヘビー級王座を獲得した試合では、普段のヒールファイトは捨てて正統派ファイトで臨んだ。
試合中にバックステージに退場して武藤からムタに変身した試合が2度(1994年4月、1997年3月)、ムタから武藤に変身した試合が1度(1997年9月)あり、いずれも蝶野が絡んでいる。武藤からムタの一つとして、1994年4月の広島グリーンアリーナにおける天龍源一郎とのタッグマッチにおいて試合当初から締りの無い試合運びをする武藤を見かねた天龍が試合中に、マイクを持ち「だらしない試合をしやがって。ムタで来いよ」という喝ともいえる挑発があり、すかさずパートナーの蝶野をリング内に一人にし、およそ4分でムタとなりリングに戻ってきた。
闘魂三銃士で唯一、猪木とのシングルマッチを実現させて、IWGPヘビー級王座のタイトルを最も早く獲得したのは、ムタである。
1996年4月29日、新崎"白使"人生の試合は、凄惨な試合として知られ、テレビカメラの前で白使が持参した卒塔婆に白使の流血した血で「死」と書いた。
2007年6月17日にはハッスルに初参戦し、タレントレスラー相手に巧みな試合コントロールを見せた。中でもインリン様のM字固めを切り返した直後、股間に毒霧を噴射したシーンは当日の興行においても名場面として高く評価され、直後に発売された週刊プロレスの表紙も飾った。後にこの噴射によりインリン様が失神をするが「ご懐卵」したというギミックが付加され、公式設定としては初のムタの実子が誕生することとなった。当初はニューリン様の例から考えると娘(=ムタスタイルのインリン・クローン)と思われていたが、実際に誕生したのは息子、それも文字通りの怪物と呼ぶに相応しいモンスター・ボノであった。
2007年12月31日のハッスルの試合では、最初登場せず、相手はモンスター・ボノを挑発し、天龍源一郎らがキャメルクラッチで捕獲、レイザーラモンRGが生肛門攻撃しようとした瞬間、時計の音が鳴り響き入場ゲートの床が突き出始め、中からグレート・ムタが降臨するいうパフォーマンスで登場。試合はTAJIRIに対し毒霧を出した後、親子3人でフォールし勝利を収めた。
2008年9月28日、ムタとして諏訪魔を破り第38代三冠ヘビー級選手権者となった。別キャラクターではあるが、同一選手がIWGPヘビー級と三冠ヘビー級のベルトを同時に保持したのは、2005年の小島聡以来二人目である。
黒師無双

武藤敬司第3の化身。2001年8月19日に宮城ニューワールド屋外駐車場特設リングで行われた、みちのくプロレスの「LOVE みちのく」仙台大会に白使と組んで初登場し、ヒロ斎藤、後藤達俊のタッグにムーンサルトプレスで勝利した。全日本プロレスには2002年5月1日に初見参。白使と組み、愚零斗孤士、ジョージ・ハインズ組に閃光魔術で勝利する。
武藤自身が使う技に加え、毒霧や白使が使用する念仏パワーボム、拝み渡りといった技も使用する。膝が悪いにもかかわらず拝み渡りを成功させる点に関しては流石としか言いようがない。
なお、新日本プロレス時代は黒「使」無双のリングネームだったが、全日本プロレスに移籍してからは黒「師」無双と名前を変えている。ギミックのモチーフは上記の白使と武藤の好きな麻雀の役名「国士無双」から。白使と違って体にはお経ではなく「Pro-wres Love」など英語の文章が書かれている。
獲得タイトル歴

NWA
NWA(WCW)世界TV選手権 : 1回(第12代)
グレート・ムタとして王座獲得。
NWA世界ヘビー級王座 : 1回(第76代)
グレート・ムタとして王座獲得。
NWA地方団体
NWAフロリダ・ヘビー級選手権 : 1回(第114代)
ホワイト・ニンジャとして23歳5か月で初戴冠。
アラバマ州認定USジュニアヘビー級選手権 : 1回(第49代)
ホワイト・ニンジャとして。
WCW
WCW世界タッグ王座
グレート・ムタとして。パートナーはバンピーロ。チーム名はダーク・カーニバル。
WWC
WWC・TV選手権 : 1回(第7代)
スーパー・ブラックニンジャとして。
WWCプエルトリコ選手権
スーパー・ブラックニンジャとして。
全日本プロレス
三冠ヘビー級王座 : 3回(第27・30・38代)
第27代王者時代は世界タッグ王座(2冠)とIWGPタッグ王座を同時に保持し、六冠王である時期もあった。第30代・第38代はグレート・ムタとして。第38代期は武藤としてIWGPヘビー級王座を同時保持。
世界タッグ王座 : 3回(第45・48・54・56代)
パートナーは太陽ケア→嵐→ジョー・ドーリング→船木誠勝。
F-1タッグ選手権
初代…パートナーは神奈月。7回防衛中。
チャンピオン・カーニバル優勝 : 3回(2002年・2004年・2007年)
世界最強タッグ決定リーグ戦優勝 : 3回(2001年・2007年・2009年)
パートナーは太陽ケア→ジョー・ドーリング→船木誠勝。
新日本プロレス
IWGPヘビー級王座 : 4回(第13,17,24,49代)
第13代はグレート・ムタとして。第49代はムタとして三冠ヘビー級王座を同時保持。
IWGPタッグ王座 : 6回(第4,12,17,24,33,42代)
パートナーは越中詩郎→蝶野正洋→馳浩2回→蝶野正洋→太陽ケア。
グレーテスト18クラブ王座 :1回(第2代)
グレート・ムタとしてIWGPと同時に獲得。その後封印。
G1 CLIMAX優勝 : 1回(1995年)
優勝こそ1回(しかもIWGPヘビー級王者として優勝)であるが、準優勝は最多の3回を誇る。
G1 TAG LEAGUE(SG TAG LEAGUE)優勝 : 5回(1993年・1994年・1997年・1998年・1999年)
パートナーは馳浩2回→蝶野正洋→小島聡→スコット・ノートン。
プロレス大賞
1986年プロレス大賞 新人賞
1989年プロレス大賞 特別功労賞
1990年プロレス大賞 最優秀タッグチーム賞(&蝶野正洋)
1995年プロレス大賞 最優秀選手賞
1998年プロレス大賞 殊勲賞(冬木弘道も受賞)
1999年プロレス大賞 最優秀選手賞、ベストバウト賞 (5/3 天龍源一郎戦)をダブル受賞。
2001年プロレス大賞 最優秀選手賞
2005年プロレス大賞 最優秀タッグチーム賞(&曙)
2008年プロレス大賞 最優秀選手賞
得意技

技に対するこだわりが強い。つまり一つ一つの技を極めて大切にする選手であり、他のレスラーが使う技でも必ず独自の改良を加え、自分なりの「美学」を形成している。そのため技術を感じられない技や観客を無視した技への嫌悪感は強く、越中詩郎のダイビング・フットスタンプを「あんな技うちの息子だってできる」と言い放ったこともある。また武藤の技全体に見られる特徴として、緩急の差の大きさがあげられる。また、ラリアットに対し「あんなの、ただ腕を横に出すだけ」とも評したこともある。
必殺技(フィニッシュ・ムーブ)
シャイニング・ウィザード(閃光魔術)
スキンヘッドとなって以後(本項では便宜的に後期と呼ぶ)の武藤敬司のオリジナルで、代名詞的な技。相手の膝等に飛び乗って頭部に膝蹴りを叩き込む(初公開は2001年1月28日、全日本プロレス東京ドーム大会での太陽ケア戦)。使い始めた当初と現在では微妙に型が異なり、当初は膝を相手の顔の正面へかち上げるような形で当てていたが、プロレス技として見栄えが悪い上にあまりにも危険なため、フォーム修正が行われた。現在では外側から回し蹴りのようにして膝の裏側の部分を当てる型を採用している。この技を「閃光魔術」と名付けたのは当時、週刊ゴング編集長の金沢克彦であり、全日本から「閃光魔術Tシャツ」が販売された際に、「名付け親の俺にロイヤリティは入らないの?」とデザイナーに冗談口調で聞いたという。
片膝をついた相手の膝を踏み台にするパターンが基本的なものであるが、以下のようなバリエーションもある。
コーナーポストの相手に串刺し式で放つ
コーナーポストに座っている相手に、コーナーを駆け上りながら放つ
レフェリーの肩を踏み台として放つ
ブリッジしている味方選手の腹部を踏み台にして放つ
相手を味方選手に肩車させ、コーナー上から放つ(シャイニング・インパクト)
立っている相手に放つ
後頭部に放つ
パワーボムの返し技として用いる
ムタや黒師として用いる際には閃光魔術あるいは閃光妖術と呼ばれ、イス攻撃した上でそのイスを踏み台にするなどのムーブが加わる。
この技は多くのレスラーにコピーされ様々なアレンジ版が公開されており名前も異なる。現在では相手の膝を踏み台にした技は「シャイニング式〜」と呼ばれる。(例・シャイニング・喧嘩キック)
ムーンサルトプレス(月面水爆)
トップロープに上って後方270°回転ボディ・プレスを行う。当初はラウンディングボディプレスとも呼ばれた。ラウンディングボディプレスとしての使い手は初代タイガーマスクが元祖であるが、タイガーマスクのは空中でひねりを加える形であり、武藤のような完全なバク転体制ではない(タイガーが後方転回式の体制で披露したのは数回程度)を。武藤も最初は初代タイガーマスクと同形のフォームであったが、後に今の形となり、そのインパクトから新人にもかかわらず、記事紙面に大きく取り上げられた。初めて披露したのは1985年の対船木誠勝戦。前期(スキンヘッドになる前の武藤を本項では便宜的に前期と呼ぶ)の武藤敬司を代表するフィニッシュ・ホールドである。現在では数え切れない選手が使用する技でもある。膝の関節に多大な負荷がかかる技であり、WCW時代にテレビ撮りのために、当時は一日に何試合もこなさなければならないこともあり、乱発した結果、武藤の膝は慢性的な故障を抱えることとなった。現在ではヒザの故障を心配する医師から使用を止められているため殆ど用いられないが、それでも大一番ではフィニッシュ・ホールドとして使用することもある。若手の頃は高さと飛距離を兼ね備えたものであったが、現在は低空ながらも速度と飛距離を重視したスタイルになっている
関節技
足4の字固め
一時期、武藤がムーンサルトの他の決め技を模索しており、ドラゴン・スリーパーを決め技にしていた時期があったが、馴染まないでいるうちに、その後に行われたUWFインターとの対抗戦において、高田延彦戦においてドラゴンスクリューの連発からこの技に繋いでギブアップを奪った。この試合以降、武藤は足四の字を自らのフィニッシュ・ホールドの一つとして使用している。特にnwoジャパン時代においてドラゴンスクリュー~足四の字は必勝パターンとして数多く使用された。現在では繋ぎ技の扱いでフィニッシュと成り得ることはあまりない。武藤がリスペクトするリック・フレアーの得意技でもある。
腕ひしぎ十字固め
幾度となくこの技でギブアップを奪ってきた。カウンター攻撃として、ブレーンバスターやアルゼンチン・バックブリーカーなどから腕ひしぎ十字固めに移行するテクニックも持っている。
指極め十字固め
腕ひしぎ十字固めで捕らえた相手の指を逆関節に極める残酷かつ危険な技。反則技と思われがちだが厳密には実は指2本を極めるため反則ではない。言うまでもなく使用するのはムタの方である。
リバース・インディアン・デスロック
うつ伏せの相手の両足を交差させ、自分の片足を掛けた状態から後方に倒れ込み、両足にダメージを与える技。WCW時代に「鎌固め」を決め技にしていた時期にはこの技から移行することもあった。技の入り方も色々あり、サソリ固めから移行したりとバリエーションも豊富であった。なお、アントニオ猪木の得意技でもある。
鎌固め(ムタロック)
リバースインディアンデスロックの体勢から、後方にブリッジして相手のアゴを自分の両手で持ち、反り上げて絞め上げる。WCW在籍時はフィニッシュ技にすることも多かった。
卍固め
第17代IWGPヘビー級王者時代、アントニオ猪木を意識してか多用していた。
キーロック
アントニオ猪木や藤波辰爾が得意とした技であり、自分の腕と足を使い、相手の肘にダメージを与える。または腕の血流を止め麻痺させる効果もある。武藤のグラウンド攻撃で欠かせない技である。
胴絞めドラゴン・スリーパー
グラウンド状態から自分の両足で胴絞めを決めつつ、ドラゴン・スリーパー・ホールドをかける。
STF
グラウンドから相手の足首を極めつつ、フェイスロックで顔面を絞める技。蝶野の必殺技のイメージが強いが、武藤も中盤の繋ぎとしてよく繰り出す。
打撃技
フラッシングエルボー
ドライビング・エルボーと呼ばれることもある、独特のフォームのエルボー・ドロップ。現在は相手をフライング・メイヤーで倒し、自らロープに走って行うことが多いが、新日本時代は稀に、現在の棚橋のようにその場飛びで行うこともあった(これをドライビングエルボーと当時は呼称された)。WWEのスーパースターザ・ロックのピープルズ・エルボーは、これが元になっているとされる。
スペースローリングエルボー(側転エルボー)
コーナーにもたれかかった相手に向かって側転(体操でいうロンダート)し、勢いそのままに胸元へ背面エルボーを放つ技。多くの場合、この技からフェイスクラッシャーに繋げる。かつては試合中盤の組み立てに欠かせない技であり、場外でも繰り出していたが、膝への負担が大きいことと、相手に動きを読まれやすくなったことから(例・ラリアットで迎撃)、近年では殆ど見られなくなった。
ドロップキック、ミサイルキック
武藤の場合、フォーム的には下から突き上げるようなドロップキックや、対橋本慎也戦で見せたような、通常のドロップキックのように相手の胸板位の高さまで飛んでおきながら、あえて胸は蹴らずそのまま膝を狙うフェイントをあわせたり、相手のラリアットを前転で回避しその後に放つなど、多様なムーブを見せる。また、足四の字の布石となる低空式に相手の膝部分を狙って仕掛けることも多く、ミサイルキック(コーナー最上段から)低空式という高低差のある攻撃もある。足4の字固めやシャイニング・ウィザードに繋ぐ重要な技となっており、特に大型レスラーに対してはこの技の連発で試合を組み立ててゆくことが多い。
ローリングソバット
飛び上がって、相手の胸板または首元に蹴りこむソバットキック。アメリカでは珍しかったのか、ムタがこの技を使う度に客席が沸いていた。最近は膝の故障の影響であまり使われない。
バック宙キック
初代タイガーマスクが得意とした、バック宙をしながらキックを浴びせる技である。ヘビー級の使い手は武藤くらいで、幼少時代からバック宙を得意としたのが活きている。この技も膝の影響で使用回数は減ったものの、ここぞというときに今でも使用している、主に劣勢時から逆転や相手の不意をつく際に使うことが多い。
フロントロールキック
その場飛びの浴びせ蹴りである。何事もないときに急に飛び出すので相手はよける暇もない。
組み技
ドラゴンスクリュー
相手の片足を両腕で抱え込み、体ごと回転しながら倒れこむことで相手の足関節にダメージを与える。開発したのは藤波辰爾。1995年10月の東京ドーム大会高田延彦戦で披露された(高田はこの試合で膝を故障し、長期休養を強いられた)。雪崩式でも用いられる。武藤が高田に用いて勝利を収めた後、大流行した技である。近年では次第に場外・エプロン・本部席のテーブルの上と相手が受身のとりづらい場所でもお構いなしに繰り出されるようになり、更にはロープ越しなど相手が回転できない状況で出すなど危険度が増している。2008年には、タッグマッチで対戦した鈴木みのるに逆回転式を見せている。
ネックスクリュー
2008年のチャンピオン・カーニバルでの太陽ケア戦で初披露。ロープ越しでブレーンバスターの体制、または宙吊り状態にして相手の首を抱え込み、体ごと回転する。
フランケンシュタイナー
相手の頭を前方から足ではさんで自分の体を反らせ、相手の頭をマットに叩きつける(ウラカン・ラナに似ているが、ウラカン・ラナは同様の体勢から丸め込む技である)。相手をトップロープに座らせて行う雪崩式も見られる。パワーボムで持ち上げられた際の返し技ともなる。ムタの場合は毒霧を吹いてからフランケンシュタイナーという組み立ても存在する。腕ひしぎ十字固めに移行することもある。
ドラゴン・スープレックス・ホールド
初期の武藤の得意技であったが、橋本真也のV10を阻んだIWGP戦でこの技を繰り出した際、橋本の巨体で自分の歯を8本折ってしまい、以後は封印している。膝の悪化で、ブリッジで支えられなくなったためでもある。
シュミット式バックブリーカー
正面から相手の肩と股に手を回し、マットと平行に持ち上げてから自分の膝に勢い良く叩きつける。ムーンサルトプレスの前に好んで使われている。
フェイスクラッシャー
上記のようにスペースローリングエルボーから繋げる場合が多かったが、単独でもたびたび使用している。特に場外マットを外し、コンクリートがむき出しになった状態で仕掛けるものも多用していた。
念仏パワーボム
黒師の必殺技。念仏を唱えながらパワーボムを行う。新崎人生のパフォーマンスが元と思われる。
その他
毒霧
ムタ、黒師の代名詞。口の中に色付きの液体を含んで、霧状にして相手の顔面に吹き付ける。WCW在籍時のウルティモ・ドラゴンが教えてもらったようで、nWoウルフパックのビデオの中で『毒霧には『玉ねぎ』がはいっているみたいですよ』と発言していた。
パフォーマンスとしても見栄えがする他、相手に吹きかけることによって視界を奪う効果もある。パワーボムの返し技としても使用される。ムタは主に赤・緑を使用し、黒師は黒・無色を使用する。
彼の試合を良く観察していると、時々毒霧を吹いた時に何か袋のようなものが口から落ちる時がある(そして、それをムタが眼で追ったりしていることがある)。過去WCW遠征でムタがnWoに入るストーリーの試合中、ムタが毒霧を吹いた後、落ちた袋をレフェリーが足で払い落とそうとして、それをムタが制止した。その後、蝶野と組み合うフリをしてその袋を拾ってまた口に入れるというシーンがあった。
拝み渡り
黒師の時に使用。相手の腕を捻った状態で持ち、トップロープ上を拝みながら歩き、最後に手刀を振り下ろす。本家は新崎人生。黒師の場合、鉄柵上を歩くこともあるが、本家と違い少しぎこちない。
ラリアット
ムタ時のみ。花道や場外で大きく助走をとり勢いよく走り込んで相手の胸元に当てた後に走りぬけるムーブをよく使用していた。
プランチャ
場外にいる相手に、リング内からロープを飛び越えてボディアタックする技である。若手時代からの得意技であり、現在もごく稀に使用している。着地時の膝への負担を軽減させるために旋回して仕掛ける場合もある。
噛み付き
ムタ時のみ。ムタの場合は凶器攻撃などで額を割ってから、その傷口に噛み付く。
入場テーマ曲

他の闘魂三銃士やプロレス四天王が入場テーマ曲をほぼ固定化しているのに対し、武藤は頻繁に入場テーマ曲を変更している。
曲名 作曲者 備考
武藤敬司
チャンピオン鷹 香港EXPLOSION デビュー当時に使用。
THE FINAL COUNTDOWN EUROPE 1986年10月からのスペースローンウルフ時代に使用。アメリカでストリップに行った時に、女の子がその曲を使って踊っていたため嫌になった。
HOLD OUT 鈴木修 1990年2月 - 1995年9月まで使用。興行やTV中継のOPで「HOLD OUT A」を使用。シリーズ興行のタイトルにも使用している。[CD:VICP-5189]
TRIUMPH André Andersen(ロイヤル・ハント) 1995年9月 - 1997年9月まで使用。1996年秋頃から、ビッグマッチでフル・バージョンを使用。[CD:WBSS-6100]
nWo TRIUMPH N.J.P. UNIT 1998年1月 - 2000年1月まで使用。[CD:WBSS-6100]
OUTBREAK 作曲:戸谷勉 演奏:N.J.P. UNIT 2000年12月 - 2002年6月まで使用。[CD:WBSS-6100]
TRANS MAGIC 作曲:Ven 演奏:HEART BLOW 「王道30 GIANT BATTLE in 武道館」(2002年7月20日) - 「プロレスLOVE in 両国 Vol.8」蝶野、鈴木みのる組戦(2009年8月30日)まで使用。2003年頃から前奏後にストーン・コールド・スティーブ・オースチンの入場曲と同様ガラスを割る効果音が挿入される。[CD:WBSS-6100]
閃光魔術 伍佰(ウー・バイ) 2008年11月に行われた台湾興行から、その年の最強タッグリーグ戦まで使用。PVにも出演した。 「武藤祭」TARU、歳三組戦(2009年6月10日)黒師無双の入場で使用した。[未CD化 ※台湾盤「太空彈」収録のインストバージョン]
SYMBOL 鈴木修 「FLASHING TOUR2009」(2009年9月)から使用。[CD:AJ11001]
グレート・ムタ
MUTA 鈴木修 「HOLD OUT」の和風アレンジバージョン。1990年 - 1995年まで主に使用。[CD:KICS-2272]
愚零闘武多協奏曲 作曲:安部潤 演奏:N.J.P. UNIT 「TRIUMPH」の和風アレンジバージョン。1996年 - 1999年、「WRESTLE-1 GP」佐々木健介戦(2005年10月2日)、「HOLD OUT TOUR 2006」小島戦(06年3月10日)や海外遠征でも使用した。[CD:WBSS-6100]
MUTA 摩天楼 作曲:安部潤 演奏:N.J.P. UNIT WCW所属選手として「導夢衝撃 〜DOME IMPACT〜」蝶野戦(2000年4月7日)、「WRESTRING DONTAKU」パワー・ウォリアー戦(2000年5月5日)で使用。[CD:WBSS-6100]
TOKYO TAKEAWAY Osborne/Engstrom 2000年のWCW参戦時に使用。[CD:PSA-7LA]
MUTA 賛美華 作曲:安部潤 演奏:HEART BLOW 全日本プロレスに初登場した「王道30 GIANT BATTLE in 武道館」愚零斗孤士戦(2002年7月20日) - 「WRESTLE-1 GP」曙戦(2005年8月4日)まで使用。[CD:WBSS-6100]
MUTA -院殿- 鈴木修 2005年から勝利時に使用していたが、「プロレスLOVE in 両国 Vol.1」TAJIRI戦(2006年8月27日)から入場に使用している。[CD:HATCH-903]
MUTA - 闇の象徴 鈴木修 「プロレスLOVE in 両国 Vol.10」KENSO戦(2010年8月29日)の入場に使用。[CD:AJ12004]
黒師(使)無双
黒使無双 作曲:Eisuke Sato 演奏:N.J.P. UNIT 新日本プロレス時代に使用。※「LOVE みちのく」ヒロ、後藤組戦(2001年8月19日)はテーマ曲が間に合わず「MUTA 摩天楼」を使用した。[CD:WBSS-6100]
黒師戯曲 作曲:MINAKO 演奏:HEART BLOW 全日本プロレスに初登場した「SUPER POWER SERIES」愚零斗孤士、ジョージ・ハインズ組戦(2002年5月1日)から使用。[CD:WBSS-6100]
人物

プロレスLOVE
武藤は1990年代末以降、自らプロレスへの深い愛の存在を各所で表明している。武藤のプロレスへの愛は彼自身が考案した「プロレスLOVE」というキャッチフレーズで知られている。両手で手話の「狐」のような形を作って投げキッスのように腕を展開する「プロレスLOVEポーズ」も有名である(その際「イャーーッ」の声もかかる)。このプロレスLOVEポーズの元ネタはウルフパックポーズである。
「プロレスLOVE」を武藤が考案するきっかけとなったのは、2001年1月28日の全日本プロレス東京ドーム大会「王道新世紀2001 〜ジャイアント馬場三回忌追悼興行〜」における太陽ケアとの対戦である。武藤はこの時、初めて全日本プロレスで試合をしたが、それまで全く知らなかった対戦相手のケアに「なんだコイツ?いいレスラーだな」との感想を持ち、当時、総合格闘技路線に走っていた新日本プロレスの思想的な「グジャグジャ」状態に疑問を投げかける意味で「プロレスLOVEなやつら集まれ!」という思いが内面から湧いてきたと述懐している[4]
社長としての武藤もプロレス本来の魅力を大切にしたマッチメイクを心がけており、全日本プロレスの伝統と武藤のセンスを融合させた団体運営は高く評価されている。武藤率いる現在の全日本プロレスは、魅力的なヒール軍団を軸に据えた抗争、渕正信や荒谷望誉、NOSAWA論外らによるコミカルな試合、多彩なマイク・パフォーマンス、バックステージでのドラマ展開、TAKAみちのくを中心にしたルチャリブレ、そしてトップレスラー同士の激しいぶつかりあいを堪能出来る団体である[5]。
三沢達の離脱後に経営が大きく傾いていた全日本プロレスを、社長就任後に短期間で立て直した手腕はプロレス界以外に政財界等でも高く賞賛する声が多く、企業セミナーなどに講師として招かれたり、総選挙の際の各党からの出馬依頼なども多い。
アメリカに遠征していたこともあり、英語に堪能である。
非常に正義感が強く、橋本などが行っていた後輩へのいじめにも否定的であり、また、先輩に対しても、酔うと誰も止められなくなる前田日明に正面から制止するなど筋道を通す性格である。
総合格闘技への態度
武藤は、アメリカでの活動経験から、プロレスはスポーツと格闘技と舞台芸術が融合された「エンターテインメント」であるという価値観を強く持っている。それ故、総合格闘技を「競技」と言い切っている。武藤によれば、柔道の強化選手として、格闘技の頂点、自らの格闘者としての限界を垣間見たため、格闘技の追求には何ら幻想を抱いていないとのことである。またUWFスタイルに対しても「柔道と同じ」と表現する等、いわゆる格闘技路線には価値を見いだしていない。格闘技路線で売り出していた小川直也とグレート・ムタとして対戦した際は、背負い投げで投げたり腕をとってのドラゴンスクリューの様な技など正統な技に加え、小川の帯を抜き取って首を絞めたり、三角絞めで組まれた際に顔面への毒切り噴射などの反則も交えて終始圧倒、最後は指2本をとっての腕ひしぎ逆十字でTKO勝ちを納めた。(ちなみに、この試合のレフェリーは猪木が務め、彼に毒霧を吐き、ビンタを受けて試合は始まった)。しかし、新日本プロレス所属時代の1996年9月23日、北尾光司を始めとする日本人を次々と撃破していたバーリトゥードの猛者ペドロ・オタービオと異種格闘技戦(プロレス)を行って、マウントパンチでギブアップ勝ちしたこともある。
膝の故障
膝に負担のかかる技を使い続けたため、両膝の軟骨の減少・摩滅等、膝に持病を抱えており、直立したつもりでも膝が「く」の字に曲がっている。後遺症は重く、カニ歩きでないと階段を昇り降り出来ない、プライベートでは300m以上は断続的でなければ歩けないなど酷い状態である。 手術後のリハビリを充分に行う事無く、プエルトリコへの海外遠征を行ったことが致命的となったことを自伝で告白している(この時の遠征はブルーザー・ブロディ刺殺事件の起こった大会である。)。
2010年現在で、すでに右膝を4度、左膝を1度手術をしているが、現代の医学では完全回復は不可能だと医師から告げられている。適切な治療を行うことで、普通に日常生活を送れる程度まで回復はできるが、その手術をすると「もうプロレスが出来なくなる」為にそのままにしている。
なお、武藤がショートタイツからロングタイツへと変えたのは、膝に何重にも巻かれた痛々しいテーピングを隠すためである。
俳優、タレント業、飲食店オーナー
武藤はプロレスをやる傍ら、俳優やタレント業の仕事も多くこなしているレスラーとしても知られており、プロレスラーの中でもかなりの人気・知名度を得ている。映画初主演した「光る女」は、プロレスラーとしては実に力道山以来の主演映画となった。
しかし、俳優の仕事は自分を売るためだけにやっており、決まったことをやる俳優よりも、リング場で自分の思うままに演じられるプロレスラーの方がおもしろいと語っている。また、前もって渡された台本を全く覚えてこないため、撮影現場ではNGを連発することでも知られている。
2008年11月19日、東京都港区麻布十番に「麻布武藤」をオープンし、武藤の故郷である山梨の野菜やうどん、鶏を扱った。本人が店に出ることもあり、店の前には本人の手形が飾られていたが、2010年10月31日に閉店した。また、2008年12月10日に、兵庫県朝来市和田山町に「焼肉 武藤道場」をOPEN。店内に設置された37型テレビで試合を収録したDVDなどを放送したり、オリジナルグッズも販売している。
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【2010/12/28 19:44 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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