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フランク・ゴッチ(Frank Alvin Gotch、1878年4月27日 - 1917年12月17日)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。アイオワ州フンボルト生まれ。近代プロレスリング創成期を代表する選手として活躍し、「ゴッチの後にゴッチ無し」と謳われた。初代世界ヘビー級王者。ただし近年ではその実力を疑問視する立場もある。
目次 [非表示] 1 経歴 2 記録に残る活動歴 2.1 NWA世界ヘビー級王者としてのゴッチ 3 得意技 4 その他 5 外部リンク 経歴 [編集] 17歳の頃までは草野球の選手として活躍した。野球の判定を巡って大喧嘩になり、そのときゴッチは自分の格闘の才能を知り、1899年4月2日プロデビュー。12月18日、対戦相手であり「アメリカンプロレスの父」と言われるマーティン・"ファーマー"・バーンズに完敗したことから弟子入り(翌1900年9月14日に再戦し勝利)。アメリカ全土やカナダなど広範囲に渡るサーキットや、アメリカン・ヘビー級王座を巡るトム・ジェンキンスとの名勝負はアメリカン・マットの発展に大きく付与した。また、ジョージ・ハッケンシュミットとの2度の対戦では、それぞれ2万人を超える観客(3万人超説もあり)を集め、プロレスリング興行のスタイルに変化を及ぼしたと言われるが、試合内容については現在に至るまで疑惑が残っている(詳細についてはジョージ・ハッケンシュミットを参照)。 1910年以降、引退表明・撤回・復帰を繰り返しているが、これはゴッチが長年に渡り健康状態に悩むことが多かったためと言われている。 1913年より故郷アイオワ州でカーディーラーを開業、1914年頃からセルズ-フロート・サーカスでのエキシビションとして賞金マッチを行うなど、これ以降の時期は実質的にセミリタイア期と位置づけられる。 1917年12月17日、尿毒症(梅毒または胃癌説あり)により39歳で死亡。約40万ドルの遺産があったといわれているが、謎に包まれた生涯といっていい。 記録に残る活動歴 [編集] 1901年 アラスカ及びカナダに遠征(時期不詳)。この際「フランク・ケネディ」のリングネームを用いた。 1903年 1月、シアトル遠征。 2月、アメリカ東部エリアに遠征。 2月16日、ポール・ポンズ(ヨーロッパ・トーナメント優勝者)に勝利。 2月22日、トム・ジェンキンス戦に敗戦。 1904年 1月28日、トム・ジェンキンスに勝利しジェンキンスの保持していたアメリカン・ヘビー級王座を獲得。この試合は「アングロサクソン民族における最強決定戦」と宣伝された。 10月、アメリカ、カナダの広範囲に渡るサーキットを開始(同年12月まで)。 1905年 2月2日、トム・ジェンキンスと再戦、アメリカン・ヘビー級王座防衛。 3月15日、トム・ジェンキンスと再戦、アメリカン・ヘビー級王座より転落。 5月19日、トム・ジェンキンスと再戦、アメリカン・ヘビー級王座奪回ならず。 1906年 5月23日、トム・ジェンキンスと再戦、アメリカン・ヘビー級王座を奪回。 12月1日、フレッド・ビールに敗戦、アメリカン・ヘビー級王座を奪われる。この試合はゴッチがリングより転落、頭部を強打。そのためリングに戻った所を簡単にフォールされたための敗戦。この王座移動はアメリカンプロレス史上最大の番狂わせと言われる。 12月17日、フレッド・ビールと再戦、アメリカン・ヘビー級王座を奪回。 1907年 2月、アメリカ東部遠征、トーナメント形式の興行。 1908年 4月3日、統一世界ヘビー級王座(ヨーロッパ版)保持者ジョージ・ハッケンシュミットと対戦。2時間3分にも及ぶ熱戦の末ゴッチ勝利。これにより統一世界ヘビー級王座とアメリカン・ヘビー級王座が統一される。 1909年 4月14日、ブルガリア王者ユーソフ・マーモントに勝利。世界ヘビー級王座防衛。 6月14日、トム・ジェンキンスに勝利。 1910年 6月1日、スタニスラウス・ズビスコに勝利、ズビスコのプロレス歴初の敗戦と言われる。 10月25日、キッド・カトラーとヘンリー・オードマン戦をレフェリング。試合はオードマンが勝利したため、ゴッチは自分の保有する王座をオードマンに譲渡し引退表明。 1911年 1月16日、フレッド・イーアラー戦にて復帰。 2月、アメリカ東部を中心としたサーキット 3月、カナダを含む、アメリカ大陸横断サーキット。 9月4日、ジョージ・ハッケンシュミットと3年ぶりに再戦し勝利。世界ヘビー級王座防衛。 10月、アメリカ西部をサーキット。 12月27日、アレックス・モンロー(ブリティッシュ王者)を下す。再度、引退表明。 1912年 2月3日、マービン・プリスティーナ戦に勝利、引退撤回。 11月7日、3度目の引退表明。 1913年 1月、ジェス・ウェスティガードのアメリカン・ヘビー級王座防衛戦をレフェリング。 2月、チャールズ・カトラー戦に勝利、3度目の引退撤回。 4月1日、ジョージ・ルーリッチに勝利、4度目の引退表明。統一世界ヘビー級王座を保持しながらの引退表明であった。 1914年 1月29日、「ニューヨーク・タイムズ」紙のインタビューに答え、統一世界ヘビー級王座の返上と引退を改めて表明。 1915年 6月、故郷アイオワ州にて現役復帰。ヘンリー・オールドマンに勝利。 1916年 7月18日、セルズ-フロート・サーカスでのエキシビションマッチ中に足首を骨折。 1917年 5月1日、リオ・パーデロに勝利、ゴッチ現役最後の試合。 NWA世界ヘビー級王者としてのゴッチ [編集] ゴッチは死後NWA世界ヘビー級王座の初代並びに第3代王者として認定された。これはNWAが管理するNWA世界ヘビー級王座に対する権威付けとして、過去に存在した王座に対し行われたものである。 なお、この認定を行ったのは1948年に発足した新NWAであるが、ゴッチ存命時には新NWAどころか、旧NWAの母体であったNBA(現WBA)すら存在しない。 また、ゴッチがNWA世界ヘビー級王者として認定された期間については、資料により食い違いがある。特に知られるものとして「1908年4月3日の対ハッケンシュミット戦の勝利による統一世界ヘビー級王座とアメリカン・ヘビー級王座の獲得を以ってNWA初代王者として扱う」もの、「1906年12月17日の対フレッド・ビール戦におけるアメリカン・ヘビー級王座奪回を以って第3代王者とし、初代王者獲得時期については根拠が不明確なもの」がある。 得意技 [編集] トゥホールド その他 [編集] ルー・テーズはその自伝において、フランク・ゴッチの弟子から聞いた話として「ゴッチは勝つために手段を選ばない、汚い手を使うダーティなチャンプであったようだ」と記している。 実際に、ジョージ・ハッケンシュミットのようにゴッチ存命中より彼を非難する者もあり、ゴッチの死後、弟子や、近しい立場の人間からも同様の発言が見られる[要出典]ことから、近年その実力を疑問視する立場もある。 カール・ゴッチの名前はフランク・ゴッチにあやかったものであり、カール・ゴッチの本名はカール・イスターツである。フランク・ゴッチの死後カール・ゴッチが誕生しており両者に血縁関係も師弟関係も無い。 PR |
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ブラック・キャット(Black Cat)のリングネームでの活動で最も知られたマル・ビクトル・マヌエル(Mar Victor Manuel、1954年10月17日 - 2006年1月28日)はメキシコのプロレスラー、レフェリーである。メキシコシティ出身。プロレスラー、およびレフェリーとしての最終所属は新日本プロレス。愛称は「ネコちゃん」。
甥がスギ・シト、マヌエル・ロブレス、パンチト・ロブレス、父がウロキ・シト。 目次 [非表示] 1 経歴 2 エピソード 3 得意技 4 タイトル歴 5 外部リンク 経歴 [編集] 1977年4月21日メキシコにてプロレスデビュー。デビュー当時のリングネームはウロキ・シト・ジュニア、後にクロネコ(Kuroneko)と改名。 メキシコの団体を中心に活動していたが、1981年にプロレス留学目的で新日本プロレスに登場する。日本でのデビュー戦は4月21日の小山ゆうえんちにて行われたタッグマッチであった(パートナー:星野勘太郎 対戦者:木戸修・永源遥組)。 以降新日本のリングをレスラー活動の中心の場としていくことになる。晩年まで用いたリングネームのブラック・キャットは日本に来てから用い始めたもので、メキシコで名乗っていた日本語に由来するリングネームを英語読みにしたものである。リングネームはブラックキャットだが、試合表のパンフレットには「クロネコ」と書かれていた。 新日本に所属している間も提携団体を中心に海外マットへも参戦し、1994年2月から6月の間はAAAでルードとして活動し、1998年1月にはWCWへ登場している。また、新日本の台湾遠征の際には、「老虎(タイガーマスク)」としてファイトしたこともある、その時はメインを務め、当時のトップ選手だったワイルド・ペガサスに勝利した。 一時期だけ猫をあしらった覆面を被って試合をしていたが、短期間で素顔に戻っている。 2000年頃から体の故障が多くなる。リハビリの間にアメリカにて栄養科学とボディビルの資格を取得。以降指導者にポジションを変えていくことになる。2003年1月からはレフェリーに転向。新日本のマットでレフェリングを行っていた。選手としての正式な引退はしていない。 2006年1月28日午前3時、急性心不全により死去。 エピソード [編集] 1987年3月27日大阪城ホールにて開催された「INOKI闘魂LIVE Part2」の「アントニオ猪木VSマサ斎藤」に乱入した海賊男の正体といわれる。当初の予定だと猪木を控室に拉致するはずが、段取りを誤ってマサを拉致してしまった。自分の乱入のために暴動を起こしてしまった事を最後まで気にしていたという。 得意技 [編集] メキシカンストレッチ 変形DDT セントーン キン肉バスター ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップ タイトル歴 [編集] ナウカルパンタッグ(パートナー:ビジャノ5号) |
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バリー・ダーソウ(Barry Allen Darsow、1959年10月6日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミネソタ州ミネアポリス出身。
クラッシャー・クルスチェフ(Krusher Khruschev)、デモリッション・スマッシュ(Demolition Smash)、リポマン(Repo Man)など、様々なキャラクターで活躍した。 目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 3 獲得タイトル 4 脚注 5 関連項目 6 外部リンク 来歴 [編集] 地元ミネアポリスでエディ・シャーキーのトレーニングを受けた後、スチュ・ハートが主宰するカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングにてハワイ行きを打診され、1980年代初頭にハワイでデビュー[1]。以後、ニュージーランドやジョージアなどを転戦し、1984年にクラッシャー・ダーソウのリングネームでビル・ワットのMSWAに登場。同団体にてロシア人ギミックのクラッシャー・クルスチェフ(ロシア語の読みではフルシチョフ)に変身し、ニコライ・ボルコフのパートナーとなって頭角を現す。NWAのフロリダ地区ではジム・ナイドハートとのコンビで同地区認定のUSタッグ王座を獲得した[2]。 1985年よりジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区に参戦し、イワン・コロフ&ニキタ・コロフとザ・ラシアンズを結成して猛威を振るう。ニキタ・コロフと組んでのロード・ウォリアーズとの抗争は、同地区のドル箱カードとなった。1986年にはニキタとのコンビで全日本プロレスに2回来日している。 1987年、WWF(現・WWE)に移籍。ロシア人ギミックを捨てて顔面ペインティングを施し、デモリッション・スマッシュと改名。デモリッション・アックスとのタッグチーム "デモリッション" の一員となり、WWF世界タッグ王座を3回に渡って獲得する[3]。アックスの離脱後はデモリッション・クラッシュをパートナーに、チーム・リーダーとなって活躍した。 1991年のデモリッション解散後は、新ギミックのリポマンに変身(リポマンとは "Repossession Man" の略で、借金を払わない債務者から自動車を盗む集団の俗称)。黒いアイマスクで顔を隠し、入場時も周囲の人目を気にしながらリングイン。凶器も車の牽引ロープやホイールキャップを用いるなど徹底したキャラクター設定のもと、卑劣かつコミカルな中堅ヒールとして悪党人気を集めた。ダーソウ自身も、リポマンのキャラクターを演じることを楽しんでいたという[1]。 1994年にはWCWに登場。ブラックトップ・ブリー(Blacktop Bully)のリングネームで主に前座要員として試合を行うが1995年に解雇される。その後は地元ミネソタ州のプロレスリング・アメリカやシカゴのAWFなどインディー団体を転戦。本名のバリー・ダーソウとして、ゴルファーのギミックでWCWにも単発出場した。 2000年9月には日本のインディー「世界のプロレス」に来日。NWAジャパン・ワールド・タッグリーグにおいてビル・アーウィンのパートナーを務め、ビルの兄スコット・アーウィンのギミック「スーパー・デストロイヤー」にあやかり、覆面を被ってスーパー・デストロイヤー21号を演じた。リポマンの名義でも試合を行ったが、コスチュームはブラックトップ・ブリー時代のものだった。 2001年4月1日、レッスルマニアX-Sevenのギミック・バトルロイヤルでリポマンとして久々にWWEに登場。2007年12月10日のRAW15周年大会でのオールドタイマーによるバトルロイヤルにも出場した。近年もインディー団体へのスポット参戦を続けており、2008年2月29日にはチカラで行われた6人タッグマッチのトーナメントに、アックス&ワンマン・ギャングとの "チームWWF" として出場している。 得意技 [編集] クロウバー(リポマン時代に用いていた逆片エビ固め。技の体勢を、車のタイヤ外しに用いられるクロウバーの形状に見立てたネーミング) クローズライン エルボー・ドロップ ペンデュラム・バックブリーカー 獲得タイトル [編集] クラッシャー・クルスチェフ ミッドサウスTV王座:1回(初代王者)[4] NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / ジム・ナイドハート) NWAミッドアトランティック・ヘビー級王座:1回 NWA USタッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / イワン・コロフ) NWA世界タッグ王座:2回(w / ニキタ・コロフ) NWA世界6人タッグ王座:2回(w / イワン&ニキタ・コロフ) デモリッション・スマッシュ WWF世界タッグ王座:3回(w / デモリッション・アックス) GLCWタッグ王座:1回(w / デモリッション・アックス) USXWタッグ王座:1回(w / デモリッション・アックス) リポマン IAWタッグ王座:1回(w / ポール・ローマ) 脚注 [編集] ^ a b “Barry Darsow: Happy to be done wrestling Reflecting on a long list of characters”. SLAM! Wrestling: April 5, 2001. 2010年2月3日閲覧。 ^ “NWA United States Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月19日閲覧。 ^ “History of the WWE World Tag Team Championship”. WWE.com. 2010年4月19日閲覧。 ^ “Mid-South Television Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年5月2日閲覧。 |
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バリー・ウインダム(Barry Clinton Windham、1960年7月4日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テキサス州スウィートウォーター出身。父親はブラックジャック・マリガン、弟はケンドール・ウインダム。ディック・マードックは義理の叔父、マイク・ロトンドは義兄弟にあたる。
父親譲りの長身の持ち主だが、大型ラフファイターだったマリガンとは対照的に、インサイドワークを駆使する技巧派として活躍した。1980年代から1990年代を全盛期に、NWA、WCW、WWFなど各メジャー団体で実績を残している。 目次 [非表示] 1 来歴 2 得意技 3 獲得タイトル 4 脚注 5 外部リンク 来歴 [編集] 父ブラックジャック・マリガンのトレーニングのもと、1980年1月にエディ・グラハムが主宰するNWAフロリダ地区のCWFでデビュー。金髪と長身、そして甘いマスクを持ったベビーフェイスの新鋭として売り出され、同年には早くもバグジー・マグロー、ミスター・サイトー、スーパー・デストロイヤーらを破り、同地区認定のTV王座を通算3回獲得した[1]。 以降もフロリダを主戦場に、ダスティ・ローデスやマリガンとのタッグで活躍。シングルでは1981年1月にドリー・ファンク・ジュニアからフロリダ・ヘビー級王座を奪取し[2]、1982年12月にはグレッグ・バレンタインを下し南部ヘビー級王座を獲得[3]。1980年代前半はリッキー・スティムボート、ポール・オーンドーフ、ケリー・フォン・エリック、ブッチ・リードらと共に、次期NWA世界ヘビー級王者候補の一人として期待を集めた。 1983年11月、全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦にロン・フラーとの2メートル・コンビで初来日。キャリア不足もあって勝ち星には恵まれなかったものの、リッキー・スティムボート以来の初来日選手に対するコールが起こった。なお、来日第1戦となる開幕戦(大阪府立体育会館)で対戦し、リーグ戦の優勝チームとなったスタン・ハンセンとブルーザー・ブロディの両者は、ジョージアやテキサスなどアメリカ南部におけるブラックジャック・マリガンのライバルでもあった。 1984年10月、フロリダでのタッグパートナーだったマイク・ロトンドと共にWWFと契約。ロトンドとのタッグチームはUSエクスプレス(U.S. Express)[4]と名付けられ、1985年1月21日にはノース・サウス・コネクション(ディック・マードック&アドリアン・アドニス)を破り、WWF世界タッグ王座を獲得した[5]。同年3月31日のレッスルマニア第1回大会でアイアン・シーク&ニコライ・ボルコフに敗れ王座から陥落するも、6月17日に奪還に成功[5]。しかし、8月24日にドリーム・チーム(グレッグ・バレンタイン&ブルータス・ビーフケーキ)にタイトルを奪われ、そのままWWFを離脱した。 1986年1月、ロトンドとのコンビで全日本に再来日。その後は古巣のフロリダを経て、同年末よりジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・プロモーションズ)に定着、リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に再三挑戦した[6]。1988年3月にはフォー・ホースメンを脱退したレックス・ルガーと組んでアーン・アンダーソン&タリー・ブランチャードからNWA世界タッグ王座を奪取するが[7]、数週間後にルガーを裏切ってヒールに転向、ルガーと入れ替わる形でフォー・ホースメンの新メンバーとなった。 1988年11月、テッド・ターナーがクロケット・プロを買収してWCWが発足すると、一時WCWを離脱し1989年にザ・ウィドウメイカー(The Widowmaker)を名乗ってWWFに短期間登場。1990年には全日本に来日してジャンボ鶴田の三冠ヘビー級王座に挑戦し、その後WCWに復帰する。復帰後は再びホースメンに加わるも、1991年からはベビーフェイスに戻り、ダスティン・ローデスとの南部人タッグを結成した。同年3月、当時WCWと提携していた新日本プロレスに初参戦し、1992年8月のGIクライマックスにも出場。1993年2月にはノースカロライナ州アッシュビルでグレート・ムタを破り、復活版のNWA世界ヘビー級王座を奪取している[8]。 1994年のWCW退団後はしばらくマット界から離れていたが、1996年末より密猟者ギミックのベビーフェイス、ザ・ストーカー(The Stalker)としてWWFに登場。翌1997年からは父マリガンと同様の黒ずくめのカウボーイ・スタイルとなり、ジャスティン・ブラッドショーを相棒にニュー・ブラックジャックス(The New Blackjacks)を結成。かつて父がブラックジャック・ランザとのコンビで一世を風靡した名タッグチーム、ザ・ブラックジャックスをリメイクした。同年の暮れには全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に、ニュー・ブラックジャックスとして参加。1983年の初来日以来、14年ぶりの最強タッグ出場を果たしている。 1998年にブラッドショーとのコンビを解消してヒールに転向、ジム・コルネットがWWF内で結成した「NWA軍」に加入するがファンの反応は鈍く、同年よりWCWに復帰する。しばらくは前座のポジションに甘んじていたものの、1999年にカート・ヘニング、ボビー・ダンカン・ジュニア、実弟のケンドール・ウインダムらと共に、カウボーイ・ユニットのウエスト・テキサス・レッドネックス(West Texas Rednecks)を結成[9]。同年2月にはヘニングと組みトーナメント決勝でクリス・ベノワ&ディーン・マレンコを、8月にはケンドールとの兄弟チームでハーレム・ヒート(スティービー・レイ&ブッカー・T)をそれぞれ破り、WCW世界タッグ王座を2回に渡って獲得した[10]。 1999年にWCWを離れ、プエルトリコのWWCやテッド・デビアスがプロデュースしたWXOなどを転戦。2000年にはケンドールとのウインダム・ブラザーズで全日本の世界最強タッグ決定リーグ戦に来日、通算3回目の出場を果たした。2001年からはダスティ・ローデスが興したTCWに参加、以降はセミリタイア状態となり、各地のインディー団体へのスポット参戦を続けた。2004年5月にはIWAジャパンに来日。マイク・ロトンドの引退試合にタッグを組んで出場した。 2006年、プロデューサーとしてWWEと契約したが、2008年に解雇された。 得意技 [編集] フライング・ネックブリーカー・ドロップ フライング・ラリアット スーパープレックス ブルドッギング・ヘッドロック ドロップキック ダイビング・ニー・ドロップ ダイビング・エルボー・ドロップ スリーパー・ホールド ブレーン・クロー 獲得タイトル [編集] CWF NWAフロリダTV王座:3回 NWAフロリダ・ヘビー級王座:6回 NWAフロリダ・タッグ王座:2回(w / マイク・グラハム、スコット・マギー) NWA南部ヘビー級王座(フロリダ版):2回 NWA北米タッグ王座(フロリダ版):1回(w / マイク・グラハム) NWA USタッグ王座(フロリダ版):3回(w / マイク・ロトンド) NWAフロリダ・グローバル・タッグ王座:1回(w / ロン・バス) NWAミッドアトランティック / WCW NWA USヘビー級王座:1回 NWA USタッグ王座:1回(w / ロニー・ガービン) NWA西部ヘリテージ王座:1回 NWA世界ヘビー級王座(復活版):1回 NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / レックス・ルガー) WCW世界タッグ王座:3回(w / ダスティン・ローデス、カート・ヘニング、ケンドール・ウインダム) WCW世界TV王座:1回 WWF WWF世界タッグ王座:2回(w / マイク・ロトンド) WWC WWC世界タッグ王座:1回(w / ケンドール・ウインダム) その他 NWA南部ヘビー級王座(テネシー版):1回 NWA北米ヘビー級王座:1回 NWAニューイングランド・ヘビー級王座:1回 BTCWヘビー級王座:2回 脚注 [編集] ^ “Wrestler Profiles: Barry Windham”. Online World of Wrestling. 2009年9月30日閲覧。 ^ “NWA Florida Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月2日閲覧。 ^ “NWA Southern Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月2日閲覧。 ^ ハルク・ホーガンの入場テーマ曲として知られるリック・デリンジャーの "Real American" は、当初はUSエクスプレスが使用する予定だった(1998年発売のCD『The Wrestling Album』にも "Windham & Rotundo's Theme" とクレジットされている)。このアルバムのリリース直後に彼らはWWFを離脱したため(LP版は1985年発売)、同曲はホーガンのエントランス・ミュージックとなった。ちなみに、それ以前のUSエクスプレスの入場テーマ曲はブルース・スプリングスティーンの "Born in the USA" だった。 ^ a b “History of the WWE World Tag Team Championship”. WWE.com. 2010年4月29日閲覧。 ^ フレアーはウインダムを手の合ったライバルの一人として認めており、その試合巧者ぶりを「自分と技術で渡り合える数少ないレスラー」「60分フルタイム闘っても苦にならない相手」などと高く評価している。また、酒と女にも強く、何度も負かされたとも語っている(DVD『リック・フレアー アルティメット・コレクション』DISC-1 / 2004年、ジェネオン・エンタテインメント)。 ^ “NWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月29日閲覧。 ^ “NWA World Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月29日閲覧。 ^ カート・ヘニングの父ラリー・ヘニングとウインダムの父ブラックジャック・マリガンは1970年11月、国際プロレスにチームを組んで来日し、IWA世界タッグ王座を奪取している。また、ボビー・ダンカン・ジュニアの父ボビー・ダンカンとブラックジャック・マリガンは、ウインダムがデビューした1980年にNWAミッドアトランティック地区で抗争を繰り広げた仲だった。 ^ “WCW World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月29日閲覧。 |
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バディ・ロバーツ(Buddy "Jack" Roberts、1945年5月16日 - )は、カナダ・ブリティッシュコロンビア州バンクーバー出身の元プロレスラー。
タッグの名手として知られ、1970年代はハリウッド・ブロンズ、1980年代はファビュラス・フリーバーズなど、プロレス史に残る名タッグチームの一員となって活躍した。 目次 [非表示] 1 来歴 2 獲得タイトル 3 脚注 4 関連項目 5 外部リンク 来歴 [編集] レッド・マクナルティ(後のイワン・コロフ)の紹介により、カルガリーのスタンピード・レスリングでの準備期間を経て、1960年代中盤にモントリオール地区にてデイル・ロバーツ(Dale Roberts)のリングネームでデビュー[1]。 その後アメリカに入り、AWAを経て南部のオクラホマ地区に参戦、ビル・ワットのアイデアで髪を金髪に染めてバディ・ロバーツ(Buddy Roberts)と改名し、1970年にジェリー・ブラウンとハリウッド・ブロンズ(The Hollywood Blondes)を結成[2]。同年5月にダニー・ホッジ&ルーク・ブラウンを破りUSタッグ王座を獲得する。以降、フロリダ、ロサンゼルス、ミッドアトランティック、テネシーなどの激戦区を転戦、各地のタッグタイトルを奪取した[3]。 この間、日本にはハリウッド・ブロンズとして1971年10月に国際プロレスに初来日。残留参戦した11月末開幕のシリーズではラッシャー木村&サンダー杉山のIWA世界タッグ王座に連続挑戦している。1974年1月にも国際を襲撃し、木村&グレート草津の同タッグ王座に再チャレンジした。1975年8月1日にはロサンゼルスに遠征してきたアントニオ猪木&坂口征二の北米タッグ王座に挑戦。この試合はノーコンテストとなり、日本組はタイトルを返上。翌月、雌雄を決するべく新日本プロレスに初参加。9月22日の王座決定戦で坂口&ストロング小林を破ってチャンピオン・チームとなったが、10日後の10月2日に猪木&坂口に奪回された[4]。以降も新日本に度々参戦し、1979年8月の最後の来日では坂口&長州力の新王者チームに挑んでいる。 1978年には単身でテキサス州サンアントニオのSCWに参戦。デイル・バレンタイン(Dale Valentine)をリングネームにジョニー・バレンタインの「弟」を名乗り[1]、タリー・ブランチャードらとタイトルを争った。 1979年にブラウンとのコンビを解消し、1980年よりビル・ワットのMSWAに進出。ここでマイケル・ヘイズとテリー・ゴディのファビュラス・フリーバーズ(The Fabulous Freebirds)と邂逅し、同年6月にはゴディと組んでバック・ロブレイ&ジャンクヤード・ドッグからミッドサウス・タッグ王座を奪取[5]。その後、フリーバーズの3人目のメンバーとなり、若いヘイズとゴディをフォローアップするプレイング・マネージャーの役割を担った。以降、ダラスのWCCW(フリッツ・フォン・エリック主宰)を中心にAWAやUWF(旧MSWA)などの主要団体で活躍し、1984年8月には短期間ながらWWFにも登場。WWF離脱後の10月には全日本プロレスに来日している。 1988年に引退し、フリーバーズも一旦解散。その後1990年、ヘイズとジミー・ガービンによる第2期フリーバーズのマネージャーとしてWCWに登場したことがある。1996年に喉頭癌を患うが克服(WWE.comにヘビースモーカーだった彼の嫌煙メッセージが載せられている)[6]。 現在はシカゴに在住。2009年に入り、息子のバディ・ロバーツ・ジュニアがシカゴのインディー団体WCPWでデビューしている[7]。 獲得タイトル [編集] 新日本プロレス 北米タッグ王座:1回(w / ジェリー・ブラウン) トライステート / MSWA / UWF USタッグ王座(トライステート版):3回(w / ジェリー・ブラウン) ミッドサウス・タッグ王座:1回(w / テリー・ゴディ) UWF世界TV王座:1回 フロリダ NWAフロリダ・タッグ王座:2回(w / ジェリー・ブラウン) ロサンゼルス NWAアメリカス・タッグ王座:4回(w / ジェリー・ブラウン) ミッドアトランティック NWAミッドアトランティック・タッグ王座:1回(w / ジェリー・ブラウン) テネシー NWA南部タッグ王座(ミッドアメリカ版):3回(w / ジェリー・ブラウン) SCW(サンアントニオ) SCWサウスウエスト・ヘビー級王座:1回 SCWサウスウエストTV王座:2回 WCCW(ダラス) NWAテキサス・ヘビー級王座:1回 NWA世界6人タッグ王座(テキサス版):5回(w / マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディ) WCCW TV王座:1回 WCWA世界6人タッグ王座:1回(w / テリー・ゴディ&アイスマン・パーソンズ) 脚注 [編集] ^ a b “Hall of Heroes Class of 2008: Buddy Roberts”. Mid-Atlantic Gateway. 2010年2月22日閲覧。 ^ “Missing Hollywood Blond Jerry Brown is found”. SLAM! Wrestling. 2010年2月22日閲覧。 ^ “Tag Team Profiles: The Hollywood Blondes”. Online World of Wrestling. 2009年9月1日閲覧。 ^ “NWA North American Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年6月8日閲覧。 ^ “Mid-South Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年6月8日閲覧。 ^ “Catching up with Buddy Roberts”. WWE.com: May 16, 2007. 2009年9月1日閲覧。 ^ “WCPW Stars”. WCPW.com. 2010年2月22日閲覧。 |
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