× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
![]() |
フランク・ゴッチ(Frank Alvin Gotch、1878年4月27日 - 1917年12月17日)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。アイオワ州フンボルト生まれ。近代プロレスリング創成期を代表する選手として活躍し、「ゴッチの後にゴッチ無し」と謳われた。初代世界ヘビー級王者。ただし近年ではその実力を疑問視する立場もある。
目次 [非表示] 1 経歴 2 記録に残る活動歴 2.1 NWA世界ヘビー級王者としてのゴッチ 3 得意技 4 その他 5 外部リンク 経歴 [編集] 17歳の頃までは草野球の選手として活躍した。野球の判定を巡って大喧嘩になり、そのときゴッチは自分の格闘の才能を知り、1899年4月2日プロデビュー。12月18日、対戦相手であり「アメリカンプロレスの父」と言われるマーティン・"ファーマー"・バーンズに完敗したことから弟子入り(翌1900年9月14日に再戦し勝利)。アメリカ全土やカナダなど広範囲に渡るサーキットや、アメリカン・ヘビー級王座を巡るトム・ジェンキンスとの名勝負はアメリカン・マットの発展に大きく付与した。また、ジョージ・ハッケンシュミットとの2度の対戦では、それぞれ2万人を超える観客(3万人超説もあり)を集め、プロレスリング興行のスタイルに変化を及ぼしたと言われるが、試合内容については現在に至るまで疑惑が残っている(詳細についてはジョージ・ハッケンシュミットを参照)。 1910年以降、引退表明・撤回・復帰を繰り返しているが、これはゴッチが長年に渡り健康状態に悩むことが多かったためと言われている。 1913年より故郷アイオワ州でカーディーラーを開業、1914年頃からセルズ-フロート・サーカスでのエキシビションとして賞金マッチを行うなど、これ以降の時期は実質的にセミリタイア期と位置づけられる。 1917年12月17日、尿毒症(梅毒または胃癌説あり)により39歳で死亡。約40万ドルの遺産があったといわれているが、謎に包まれた生涯といっていい。 記録に残る活動歴 [編集] 1901年 アラスカ及びカナダに遠征(時期不詳)。この際「フランク・ケネディ」のリングネームを用いた。 1903年 1月、シアトル遠征。 2月、アメリカ東部エリアに遠征。 2月16日、ポール・ポンズ(ヨーロッパ・トーナメント優勝者)に勝利。 2月22日、トム・ジェンキンス戦に敗戦。 1904年 1月28日、トム・ジェンキンスに勝利しジェンキンスの保持していたアメリカン・ヘビー級王座を獲得。この試合は「アングロサクソン民族における最強決定戦」と宣伝された。 10月、アメリカ、カナダの広範囲に渡るサーキットを開始(同年12月まで)。 1905年 2月2日、トム・ジェンキンスと再戦、アメリカン・ヘビー級王座防衛。 3月15日、トム・ジェンキンスと再戦、アメリカン・ヘビー級王座より転落。 5月19日、トム・ジェンキンスと再戦、アメリカン・ヘビー級王座奪回ならず。 1906年 5月23日、トム・ジェンキンスと再戦、アメリカン・ヘビー級王座を奪回。 12月1日、フレッド・ビールに敗戦、アメリカン・ヘビー級王座を奪われる。この試合はゴッチがリングより転落、頭部を強打。そのためリングに戻った所を簡単にフォールされたための敗戦。この王座移動はアメリカンプロレス史上最大の番狂わせと言われる。 12月17日、フレッド・ビールと再戦、アメリカン・ヘビー級王座を奪回。 1907年 2月、アメリカ東部遠征、トーナメント形式の興行。 1908年 4月3日、統一世界ヘビー級王座(ヨーロッパ版)保持者ジョージ・ハッケンシュミットと対戦。2時間3分にも及ぶ熱戦の末ゴッチ勝利。これにより統一世界ヘビー級王座とアメリカン・ヘビー級王座が統一される。 1909年 4月14日、ブルガリア王者ユーソフ・マーモントに勝利。世界ヘビー級王座防衛。 6月14日、トム・ジェンキンスに勝利。 1910年 6月1日、スタニスラウス・ズビスコに勝利、ズビスコのプロレス歴初の敗戦と言われる。 10月25日、キッド・カトラーとヘンリー・オードマン戦をレフェリング。試合はオードマンが勝利したため、ゴッチは自分の保有する王座をオードマンに譲渡し引退表明。 1911年 1月16日、フレッド・イーアラー戦にて復帰。 2月、アメリカ東部を中心としたサーキット 3月、カナダを含む、アメリカ大陸横断サーキット。 9月4日、ジョージ・ハッケンシュミットと3年ぶりに再戦し勝利。世界ヘビー級王座防衛。 10月、アメリカ西部をサーキット。 12月27日、アレックス・モンロー(ブリティッシュ王者)を下す。再度、引退表明。 1912年 2月3日、マービン・プリスティーナ戦に勝利、引退撤回。 11月7日、3度目の引退表明。 1913年 1月、ジェス・ウェスティガードのアメリカン・ヘビー級王座防衛戦をレフェリング。 2月、チャールズ・カトラー戦に勝利、3度目の引退撤回。 4月1日、ジョージ・ルーリッチに勝利、4度目の引退表明。統一世界ヘビー級王座を保持しながらの引退表明であった。 1914年 1月29日、「ニューヨーク・タイムズ」紙のインタビューに答え、統一世界ヘビー級王座の返上と引退を改めて表明。 1915年 6月、故郷アイオワ州にて現役復帰。ヘンリー・オールドマンに勝利。 1916年 7月18日、セルズ-フロート・サーカスでのエキシビションマッチ中に足首を骨折。 1917年 5月1日、リオ・パーデロに勝利、ゴッチ現役最後の試合。 NWA世界ヘビー級王者としてのゴッチ [編集] ゴッチは死後NWA世界ヘビー級王座の初代並びに第3代王者として認定された。これはNWAが管理するNWA世界ヘビー級王座に対する権威付けとして、過去に存在した王座に対し行われたものである。 なお、この認定を行ったのは1948年に発足した新NWAであるが、ゴッチ存命時には新NWAどころか、旧NWAの母体であったNBA(現WBA)すら存在しない。 また、ゴッチがNWA世界ヘビー級王者として認定された期間については、資料により食い違いがある。特に知られるものとして「1908年4月3日の対ハッケンシュミット戦の勝利による統一世界ヘビー級王座とアメリカン・ヘビー級王座の獲得を以ってNWA初代王者として扱う」もの、「1906年12月17日の対フレッド・ビール戦におけるアメリカン・ヘビー級王座奪回を以って第3代王者とし、初代王者獲得時期については根拠が不明確なもの」がある。 得意技 [編集] トゥホールド その他 [編集] ルー・テーズはその自伝において、フランク・ゴッチの弟子から聞いた話として「ゴッチは勝つために手段を選ばない、汚い手を使うダーティなチャンプであったようだ」と記している。 実際に、ジョージ・ハッケンシュミットのようにゴッチ存命中より彼を非難する者もあり、ゴッチの死後、弟子や、近しい立場の人間からも同様の発言が見られる[要出典]ことから、近年その実力を疑問視する立場もある。 カール・ゴッチの名前はフランク・ゴッチにあやかったものであり、カール・ゴッチの本名はカール・イスターツである。フランク・ゴッチの死後カール・ゴッチが誕生しており両者に血縁関係も師弟関係も無い。 PR |
![]() |
![]() |
|
![]() |
トラックバックURL
|
![]() |