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五味 隆典(ごみ たかのり、男性、1978年9月22日 - )は、日本の総合格闘家。神奈川県愛甲郡愛川町出身。久我山ラスカルジム所属。元PRIDEライト級王者。
KO、一本での勝利(本人曰く『スカ勝ち』)にこだわるアグレッシブな試合が持ち味。 2006年7月22日に東京都杉並区久我山に自身のジム「久我山ラスカルジム」を開き、以降はこのジム所属扱いとなっている。 目次 [非表示] 1 来歴 1.1 UFC 2 戦績 2.1 総合格闘技 2.2 グラップリング 3 獲得タイトル 4 人物 5 Abaddon 6 スカ勝ち 7 脚注 8 関連項目 9 外部リンク 来歴 [編集] 16歳の時、木口道場レスリング教室に入門。木口宣昭会長のもとレスリングを学び、総合格闘技を始めた。高校を中退し、五味に警察官になって欲しかった父親との仲が悪くなり、縁を切られた。 1998年11月、修斗にてプロデビュー、以降連勝を続けた。2001年8月26日にはウェルター級王座決定戦を三島☆ド根性ノ助と行う予定であったが、三島の左脇腹の負傷により試合は中止となった[1]。12月16日には佐藤ルミナに勝利し第5代修斗ウェルター級王座を獲得した。 2002年はレオナルド・サントス、クリス・ブレナンに判定勝ちし、12月14日には前年に中止となった三島戦を迎える。2Rにフックでダウンを奪い、その後タックルにきた三島に打撃を浴びせTKO勝ちを収め、初防衛に成功した。 2003年8月10日にヨアキム・ハンセンに敗れ、デビュー以来の連勝は13でストップ、ウェルター級王座からも陥落した。10月10日、ハワイで開催されたRumble on the Rock 4でBJペンと対戦。何度もバックマウントを取られパンチを浴び、最後はチョークスリーパーで一本負け。 その打撃技術の高さから、当初はK-1参戦が噂されていた五味だったが、総合格闘技の道を選びPRIDE武士道に参戦した。 2004年2月15日のPRIDE 武士道 -其の弐-で初参戦し、シュートボクセ・アカデミーのジャドソン・コスタにマウントパンチでKO勝ち。その後、それまで総合では無敗だったハウフ・グレイシーに試合開始6秒でKO勝ちするなど、海外選手を相手に6連続1ラウンドでのKOまたは一本勝ちを記録し名実ともにPRIDE軽量級のエースとなった。 2005年9月25日に開催されたPRIDEライト級トーナメントに出場。1回戦で川尻達也と対戦し、1ラウンドに裸絞めで一本勝ち。準決勝ではルイス・アゼレードに僅差の判定勝ち。大晦日の決勝戦では、修斗時代の先輩でもある桜井"マッハ"速人と対戦、1ラウンドにパンチラッシュでKO勝利しPRIDE10連勝を飾るとともにトーナメント優勝を果たした。 2006年3月31日、初代PRIDEライト級王者に認定された。しかし、王者としての初戦となった2006年4月2日のPRIDE 武士道 -其の拾-で、ZST GP王者のマーカス・アウレリオに肩固めで一本負け(ノンタイトル戦であったため、王座の移動は無し)。8月26日のPRIDE 武士道 -其の十二-では、フランスのデビッド・バロンに一本勝ちを収めた。11月5日のPRIDE 武士道 -其の十三-でアウレリオとの再戦がライト級タイトルマッチとして組まれた。試合は両者共に前に踏み出せずに膠着が続いたものの、判定2-1で勝利。王座の防衛に成功した。その後12月31日のPRIDE 男祭り 2006にて、アウレリオを破った石田光洋と対戦することが決まり、試合前から舌戦を繰り広げていたが、結果は五味の1ラウンドKO勝ち。 2007年2月24日、PRIDE.33で王者として初のアメリカ進出。試合前からジョルジュ・サンピエールらUFC王者と戦いたいとコメントをしていたが、五味の希望は叶わず、ニック・ディアスと対戦。1Rにフックでダウンを奪い優位に立ったが、2Rにフットチョークでタップアウト負けとなった。その後、ディアスの薬物使用(マリファナ)が発覚し、ネバダ州アスレチック・コミッションの決定により4月9日付けで無効試合となった[2]。 3月21日、第13回全日本コンバットレスリング選手権の73kg級で優勝を果たした。その後はPRIDEの消滅もあり、2007年は試合はすることは無かった。12月29日にラスベガスで行われたUFC 79に来場したが、最終的に参戦には至らなかった。 2008年1月31日、新団体「戦極」への参戦が発表された。エースとしての扱いを受け、3月5日の旗揚げ戦・戦極 〜第一陣〜でドゥエイン・ラドウィックと対戦。1Rに左フックでダウンを奪い、出血によるドクターストップでTKO勝ち。続く8月24日の戦極 〜第四陣〜ではDEEPライト級王者ハン・スーファンに判定勝利を収めるも、11月1日の戦極 〜第六陣〜では無名のセルゲイ・ゴリアエフに1-2の判定で敗れ、2年半振りの敗戦を喫した。試合後、同大会で五味への挑戦権を賭けたライト級グランプリの優勝を決めた北岡悟との対戦が2009年1月4日に行われることが決定した。 2008年11月30日、全日本コンバットレスリング・オープン選手権73kg級に出場。決勝で永田克彦と対戦し、ポイント1-0で判定勝ちを収め、優勝を果たした。 2009年1月4日、戦極の乱2009の戦極ライト級チャンピオンシップで北岡悟と対戦し、アキレス腱固めで一本負けを喫し、王座獲得に失敗した。 2009年5月10日、5年9か月ぶりに修斗に参戦。中蔵隆志と対戦し、パウンドでTKO勝ちを収めた。試合後、リング上で「帰ってきたぜ!」と絶叫した[3]。 2009年8月1日に開催予定であったAffliction: Trilogyでハファエロ・オリベイラと対戦予定であったが、大会が中止となった。 2009年10月30日、10年ぶりの開催となったVALE TUDO JAPAN 09のメインイベントでKOTCライト級王者トニー・ハービーと対戦し、3Rまでは優勢に試合を進めるも4Rから失速し、判定勝ちとなった。試合前には「いい勝ち方をしてリング上で言いたいことがある」と発言していたが[4]、試合後のリング上で「大晦日に魔裟斗選手と…無理だよ。やめる!」と大晦日での引退を公表している魔裟斗との対戦を考えていたものの、納得した勝ち方ができなかったことで尻すぼみの発言となった[5]。 UFC [編集] 2010年1月にUFCと契約したことを発表[6]。UFCデビュー戦となった3月31日のUFC Fight Night: Florian vs. Gomiのメインイベントではケニー・フロリアンにチョークスリーパーで敗れ、黒星デビューとなった[7]。 2010年8月1日、UFC on Versus: Jones vs. Matyushenkoではタイソン・グリフィンに開始1分余りで右フックによるKO勝ちを収め、UFC初勝利を挙げるとともにノックアウト・オブ・ザ・ナイトを獲得した[8][9]。試合後に十八番の駆け上りを金網で実現するも、金網を上ったことを注意された[10]。 2011年1月1日、UFC 125でクレイ・グイダと対戦するも2R終盤にギロチンチョークで一本負けを喫し、UFCでの戦績を1勝2敗とした[11]。 戦績 [編集] アマチュア総合格闘技: アマ修斗 4勝1敗 総合格闘技 [編集] 総合格闘技 戦績 40 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合 32 勝 12 6 14 0 0 1 7 敗 0 5 2 0 勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日 × クレイ・グイダ 2R 4:27 ギロチンチョーク UFC 125: Resolution 2011年1月1日 ○ タイソン・グリフィン 1R 1:04 KO(右フック) UFC on Versus: Jones vs. Matyushenko 2010年8月1日 × ケニー・フロリアン 3R 2:52 チョークスリーパー UFC Fight Night: Florian vs. Gomi 2010年3月31日 ○ トニー・ハービー 5分5R終了 判定3-0 VALE TUDO JAPAN 09 2009年10月30日 ○ 中蔵隆志 2R 4:42 TKO(パウンド) 修斗 "修斗伝承 ROAD TO 20th ANNIVERSARY FINAL" 2009年5月10日 × 北岡悟 1R 1:41 アキレス腱固め 戦極の乱2009 【戦極ライト級チャンピオンシップ】 2009年1月4日 × セルゲイ・ゴリアエフ 5分3R終了 判定1-2 戦極 〜第六陣〜 2008年11月1日 ○ ハン・スーファン 5分3R終了 判定3-0 戦極 〜第四陣〜 2008年8月24日 ○ ドゥエイン・ラドウィック 1R 2:28 TKO(カット) 戦極 〜第一陣〜 2008年3月5日 - ニック・ディアス 2R 1:46 無効試合 PRIDE.33 "THE SECOND COMING" 2007年2月24日 ○ 石田光洋 1R 1:14 KO(パウンド) PRIDE 男祭り 2006 -FUMETSU- 2006年12月31日 ○ マーカス・アウレリオ 2R(10分/5分)終了 判定2-1 PRIDE 武士道 -其の十三- 【PRIDEライト級タイトルマッチ】 2006年11月5日 ○ デビッド・バロン 1R 7:10 チョークスリーパー PRIDE 武士道 -其の十二- 2006年8月26日 × マーカス・アウレリオ 1R 4:34 肩固め PRIDE 武士道 -其の拾- 2006年4月2日 ○ 桜井"マッハ"速人 1R 3:56 KO(右ストレート) PRIDE 男祭り 2005 頂-ITADAKI- 【ライト級GP 決勝】 2005年12月31日 ○ ルイス・アゼレード 2R(10分/5分)終了 判定3-0 PRIDE 武士道 -其の九- 【ライト級GP 準決勝】 2005年9月25日 ○ 川尻達也 1R 7:42 チョークスリーパー PRIDE 武士道 -其の九- 【ライト級GP 1回戦】 2005年9月25日 ○ ジーン・シウバ 2R(10分/5分)終了 判定3-0 PRIDE 武士道 -其の八- 2005年7月17日 ○ ルイス・アゼレード 1R 3:46 KO(右フック) PRIDE 武士道 -其の七- 2005年5月22日 ○ ジェンス・パルヴァー 1R 6:21 KO(左アッパー) PRIDE 男祭り 2004 -SADAME- 2004年12月31日 ○ チャールズ・"クレイジー・ホース"・ベネット 1R 5:52 チキンウィングアームロック PRIDE 武士道 -其の伍- 2004年10月14日 ○ ファビオ・メロ 1R 8:07 TKO(パウンド) PRIDE 武士道 -其の四- 2004年7月19日 ○ ハウフ・グレイシー 1R 0:06 TKO(膝蹴り) PRIDE 武士道 -其の参- 2004年5月23日 ○ ジャドソン・コスタ 1R 4:55 TKO(パウンド) PRIDE 武士道 -其の弐- 2004年2月15日 × BJペン 3R 2:35 チョークスリーパー Rumble on the Rock 4 2003年10月10日 × ヨアキム・ハンセン 5分3R終了 判定0-2 修斗 【世界ウェルター級チャンピオンシップ】 2003年8月10日 ○ ニック・アートル 1R 4:59 腕ひしぎ十字固め 修斗 2003年2月23日 ○ 三島☆ド根性ノ助 2R 0:52 TKO(パンチ連打) 修斗 【世界ウェルター級チャンピオンシップ】 2002年12月14日 ○ クリス・ブレナン 5分3R終了 判定3-0 修斗 2002年9月16日 ○ レオナルド・サントス 5分3R終了 判定2-0 修斗 2002年6月29日 ○ 佐藤ルミナ 5分3R終了 判定3-0 修斗 SHOOTO TO THE TOP -THE FINAL ACT- 【世界ウェルター級王座決定戦】 2001年12月16日 ○ 雷暗暴 5分3R終了 判定3-0 修斗 R.E.A.D. 2000年11月12日 ○ ポール・ロドリゲス 5分3R終了 判定3-0 修斗 R.E.A.D. 2000年7月16日 ○ ファンデウソン・パヴァオン 5分3R終了 判定3-0 修斗 R.E.A.D. 2000年4月2日 ○ ジョニー・エドゥアウド 3R 1:43 チョークスリーパー VALE TUDE JAPAN '99 1999年12月11日 ○ 桑原卓也 5分3R終了 判定3-0 IV 修斗 the Renaxis 1999 1999年9月5日 ○ ステファン・パーリング 1R 3:06 チョークスリーパー SuperBrawl 12 1999年6月1日 ○ 桑原卓也 5分3R終了 判定3-0 II 修斗 the Renaxis 1999 1999年3月28日 ○ 高田和道 2R 3:42 TKO(パンチ連打) 修斗 the Renaxis 1999 "Devilock Fighters" 1999年1月15日 ○ 鶴屋浩 5分2R終了 判定3-0 修斗 Las Grandes Viajes 6 1998年11月27日 グラップリング [編集] 勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日 × シェーン・ローラー 1R 5:30 チョークスリーパー Grapplers Quest at UFC Fan Expo Vegas 2010 2010年5月29日 ○ 宇野薫 5分3R終了 判定59-56 G.C.M The CONTENDERS 6 2001年10月8日 ○ 星野勇二 5分2R終了 判定40-37 G.C.M The CONTENDERS「Millennium-1」 2001年6月10日 × 三宅靖志 5分2R終了 判定27-28 G.C.M.「CONTENDERS II」 1999年10月17日 獲得タイトル [編集] PRIDE GP 2005 ライト級トーナメント優勝(2005年) 初代PRIDEライト級王座(2006年) 第5代修斗ウェルター級世界王座 コンバットレスリング 69kg級 3位(1998年) コンバットレスリング 69kg級 優勝(2001年) コンバットレスリング 74kg級 優勝(2002年) コンバットレスリング 74kg級 優勝(2003年) コンバットレスリング 73kg級 優勝(2007年) 人物 [編集] 火の玉のようなファイトスタイル、破天荒な性格から男性ファンが非常に多く、各界著名人にもファンが多い。 『人志松本のすべらない話』(2009年12月26日放送分)にゲスト出演。千原ジュニア・松本人志が五味の大ファンであり声をかけたとみられる(千原からの指名で雑誌での対談もしている)。千原のマネージャーネタをうけ、自らのマネージャーネタを披露した。 マネージャー(マネジメント全般)は中学からの親友・市川広樹。『Abaddon』でも実名で登場しており、二人の信頼関係がうかがえる。 THE MAD CAPSULE MARKETSの大ファン。トランクスにロゴを入れ、PRIDE時代の入場曲に「SCARY -Delete streamin' freq. from fear side-」を使用していた(2010年8月1日のUFC on Versus: Jones vs. Matyushenkoのタイソン・グリフィン戦から「SCARY -Delete streamin' freq. from fear side-」に戻している)。また、矢沢永吉を崇拝している。 トレーディングカードゲーム「ディメンション・ゼロ」のイメージキャラクターでもあり、本人出演(本人がCM台本を読んだ)のCMもある。 吉祥寺のハーモニカ横丁でよく飲んでいる(本人のブログより) 中学時代は野球部に所属。ピッチャーを務める。 Abaddon [編集] 週刊ヤングマガジンで連載。新宿スワンの著者である和久井健が五味を主人公に描く。和久井が五味の大ファンであることから実現。 2010年3月15日発売号より前半連載開始(8回)。2010年7月23日第1巻(単行本)が発売。 2010年12月6日発売号より後半連載開始。 スカ勝ち [編集] 修斗時代には判定勝利も多かった五味だが、PRIDE武士道ではKO率8割を誇り、しかもその全てが1Rで決着するというストライカーである。五味自身、KO勝利を「スカ勝ち」と呼び非常にこだわっており、2004年12月31日のPRIDE 男祭り 2004では勝利後にリング上で「大晦日に判定?駄目だよ、KOじゃなきゃ!」と発言している[12]。 PR |
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小林 歩(こばやし あゆむ、男性、1980年12月11日 - )は、日本の総合格闘家。群馬県邑楽郡大泉町出身。身長171cm、体重70kg。荒武者総合格闘技を経て2005年よりKILLER BEE所属。
目次 [非表示] 1 来歴 2 戦績 2.1 総合格闘技 3 関連項目 4 外部リンク 来歴 [編集] 群馬県立西邑楽高等学校普通科卒業後、山梨学院大学法学部法学科卒業。 高校、大学共にレスリング部に所属。大学時代はシドニーオリンピック代表の小幡邦彦、総合格闘家の山本篤、同じく福田力らと同学年にあたる。2002年度内閣総理大臣杯 全日本大学レスリング選手権フリースタイル74kg級にて準優勝。同年天皇杯にも出場。大学卒業後、一時地元群馬に帰るも格闘技を志し、上京。 2003年3月のADCC日本予選77kg級で3位入賞。 2006年、DEEPフューチャーキングトーナメント70kg級にて優勝。 戦績 [編集] 総合格闘技 [編集] 総合格闘技 戦績 4 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合 4 勝 2 1 1 0 0 0 0 敗 0 0 0 0 勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日 ○ 児山佳宏 5分2R終了 判定3-0 DEEP 23 IMPACT 【フューチャーキングトーナメント2005 70kg級 決勝】 2006年2月5日 ○ 松本光史 1R 4:53 チョークスリーパー DEEP フューチャーキングトーナメント2005 【フューチャーキングトーナメント2005 70kg級 準決勝】 2005年12月25日 ○ 南陽啓 2R 2:02 TKO(パウンド) DEEP フューチャーキングトーナメント2005 【フューチャーキングトーナメント2005 70kg級 準々決勝】 2005年12月25日 ○ 斉藤正臣 1R 3:55 TKO(パウンド) DEEP フューチャーキングトーナメント2005 【フューチャーキングトーナメント2005 70kg級 1回戦】 2005年12月25日 |
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ヴァリッジ・イズマイウ(Wallid Ismail、男性、1968年2月23日 - )は、ブラジル出身の総合格闘家。ブラジル・ドージョー主宰。
PRIDEをはじめとした総合格闘技の舞台で活躍し、その後プロモーターとしての活躍が目立っているが、柔術家としては、ホイス・グレイシー、ヘンゾ・グレイシー、ハウフ・グレイシーに勝利を収めるなど輝かしい戦績を誇る。またハイアン・グレイシーとナイトクラブで大喧嘩しフロントチョークで絞め落とすという武勇伝をもっている。 目次 [非表示] 1 来歴 2 戦績 3 関連項目 4 外部リンク 来歴 [編集] 1991年8月31日、エウジーニョ・タデウとバーリトゥードマッチで対戦し、グラウンドパンチでTKO勝ち。 1993年8月1日、ヘンゾ・グレイシーと柔術マッチで対戦。60分を戦い抜き、ポイント勝ち。 1996年4月5日、UVF(ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング)に初来日。デニス・キャファリノスにチョークスリーパーで一本勝ち。 1996年6月24日、UVFブラジルでバトラーツ所属の臼田勝美にチョークスリーパーで一本勝ち。 1996年11月17日、U-JAPAN SUPER FIGHTINGで臼田と再戦、またもやチョークスリーパーで一本勝ち。 1997年2月7日、UFC 12でパンクラス所属の高橋義生に判定負け。日本人選手のUFC初勝利となった。 1998年6月24日、PRIDE初参戦となったPRIDE.4で小路晃にTKO負けし、限界が囁かれる。 1999年12月、オスカー杯ブラジリアン柔術大会でホイス・グレイシーと対戦し、送り襟絞めで失神させ、一本勝ち。 2001年7月29日、PRIDE.15で大山峻護と対戦し、肩固めで一本勝ち。 以後、村上和成や滑川康仁などを下すが、2002年12月31日以降試合を行っていない。 現在はアントニオ猪木公認のジム、ブラジル・ドージョーを主宰し、Jungle Fightを開催する。 戦績 [編集] 総合格闘技 戦績 12 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合 9 勝 2 5 2 0 0 0 3 敗 1 0 2 0 勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日 ○ 滑川康仁 5分3R終了 判定3-0 INOKI BOM-BA-YE 2002 2002年12月31日 ○ 村上和成 2R 3:03 TKO(グラウンドパンチ) UFO LEGEND 2002年8月8日 × アレックス・スティーブリング 5分3R終了 判定0-3 PRIDE.19 2002年2月24日 ○ 大山峻護 2R 4:44 肩固め PRIDE.15 2001年7月29日 × 小路晃 2R 1:26 TKO(パンチ) PRIDE.4 1998年10月11日 ○ ゲーリー・マイヤーズ 30分終了 判定3-0 IVC 5: The Warriors 1998年4月26日 ○ ジョイユ・デ・オリベイラ 1R 9:48 タップアウト(マウントパンチ) IVC 3: The War Continues 1997年12月10日 × 高橋義生 15分終了 判定0-3 UFC 12: Judgement Day 【ライト級トーナメント 1回戦】 1997年2月7日 ○ 臼田勝美 1R 3:10 チョークスリーパー U-JAPAN SUPER FIGHTING 1996年11月17日 ○ 臼田勝美 1R 3:59 チョークスリーパー Universal Vale Tudo Fighting 2 1996年6月24日 ○ デニス・キャファリノス 1R 2:10 チョークスリーパー Universal Vale Tudo Fighting 1 1996年4月5日 ○ エウジーニョ・タデウ 16:18 TKO(負傷) Desafio: Jiu-Jitsu vs. Luta Livre 1991年9月26日 |
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├─≠ョ─ヵラス 殺人アパッチ
├─≠ョ─ヵラス インディアン・ギミックのレスラーでは珍しくヒールのポジションで活動し、ミル・マスカラスやブルーノ・サンマルチノなどの大人気スターを相手に狂乱ファイトを繰り広げた。 |
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フリッツ・フォン・エリック(Fritz Von Erich、1929年8月16日 - 1997年9月10日)は、アメリカ合衆国テキサス州出身のプロレスラー。本名はジャック・バートン・アドキッセン(Jack Barton Adkisson、ハンス・アドキッセンとも)。
ギミック上の出身地はドイツ・ベルリン。アイアンクローの開祖として知られ、「鉄の爪」はそのまま彼の異名にもなった。引退後はテキサス州ダラスのWCCWテリトリーのプロモーターとして活動した。 目次 [非表示] 1 来歴 1.1 日本との関わり 2 獲得タイトル 3 エピソード 4 脚注 5 外部リンク 来歴 [編集] 13歳の時にアメリカに移住、父母ともにドイツ系ユダヤ人であり、ナチスの迫害を逃れたものだった(とされる)が、リング上のキャラクターとしては「ナチス親衛隊の生き残り」と称することもあった。 大学時代はフットボールの選手として活躍、スチュ・ハートのコーチを受け1954年にプロレスラーとしてデビュー。ナチ・ギミックのヒールとなって活動し、1950年代後半からは彼の「弟」という設定のワルドー・フォン・エリックとの兄弟タッグでも悪名を売った[1]。1963年7月27日にはネブラスカ州オマハでバーン・ガニアを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得、第9代王者となった。 1966年よりテキサス州ダラスにてNWA傘下の団体NWAビッグ・タイム・レスリングを設立。同年12月にはメインタイトルであるNWAアメリカン・ヘビー級王座の初代チャンピオンとなり、以降ビッグ・タイム・レスリングのオーナー兼エースとして活躍。アメリカン・ヘビー級王座には1966年から1977年にかけて、ブルート・バーナード、ザ・スポイラー、バロン・フォン・ラシク、ジョニー・バレンタイン、ボリス・マレンコ、トール・タナカ、ブラックジャック・マリガン、ブルーザー・ブロディ、オックス・ベーカーらを破り、通算15回に渡って戴冠した[2]。また、1975年からは1年間、NWAの会長職も務めている。 1980年代からは団体名をWCCW(World Class Championship Wrestling)に改称し、1982年のキングコング・バンディ戦を最後に現役を引退。以降はプロモート業に注力し、WCCWのボスとして黄金時代を築く。自らの息子たちをエースに、最盛時には「ダラスのプロレスラーはエリックのホテルに部屋を与えられ、エリックのレストランで食事をし、エリックの銀行の小切手でファイトマネーを支払われる」と言われたほど、経済的にも成功をおさめた。一方で、長男のハンス・アドキッセン・ジュニアが幼くして不慮の事故により夭逝して以降、デビッド、ケリー、マイク、クリスとその息子たちがことごとく死去、「呪われたエリック一家」とも囁かれた(デビッドは日本で病死、一説には急性ドラッグ中毒と言われているが、エリック・ファミリーは否定している。ケリー、マイク、クリスは自殺[3])。健在なのは次男(プロフィール上は長男)ケビンだけとなっている(ケビンはプロレスラーを引退し、近年は母親や妻子とともにカウアイ島在住[4])。 1980年代後半、ジム・クロケット・ジュニアの発言力が増してNWA内部のパワーバランスが崩れ始めたことを機にNWAを脱退。WWFとの興行戦争に抗するべくテネシー州メンフィスのCWAと合併し、新たに発足したUSWAのダラスにおける興行を手掛けるが、最終的にはメンフィス派と袂を分かちプロレスリング・ビジネスから撤退した。その後、長年連れ添った夫人とも離婚し、1997年に癌のため死去[3]。68歳没。 2009年、フォン・エリック一家のWWE殿堂入りが決定。授賞式にはケビンが出席した。 日本との関わり [編集] 1966年の初来日以降、日本に度々遠征し、ジャイアント馬場とはインターナショナル・ヘビー級選手権のベルトをめぐる数々の好勝負を残した。初来日時の東京での馬場とのインター戦は、日本武道館のプロレス初興行のメインイベントであった。日本プロレス時代は馬場戦以外にも、ギミック上の「弟」であるワルドー・フォン・エリックや「青銅の爪」キラー・カール・クラップを従えてのインターナショナル・タッグ選手権や、アントニオ猪木とのUNヘビー級選手権などを戦っている。 1973年、日本プロレス最後のシリーズとなった「アイアンクロー・シリーズ」に参戦。日本プロレスの崩壊後は馬場の全日本プロレスに来日するようになり、最後の来日となった1979年には馬場の弟子であるジャンボ鶴田とも戦っている。「ジャンボ鶴田試練の十番勝負」の最終戦の対戦相手を務めたもので、さすがに年齢には勝てず敗れはしたが、その迫力は健在であった。リング下にいた当時若手の大仁田厚を顔面にアイアンクローをかけてそのままリング上に引きずり上げたのはこの最後の来日時である。1985年頃から日本での提携先を全日本から新日本に変更したが、新日本に来ることはなかった。 また、テキサス地区のプロモーター・ブッカーとして息子たちやブルーザー・ブロディなど数々の選手を日本に送り込んだ。 息子たちがまだ幼い頃、一緒に来日した際に広島の原爆資料館を見学させ、戦争の悲惨さを繰り返し説いていたという。 獲得タイトル [編集] AWA世界ヘビー級王座:1回 インターナショナル・タッグ王座:1回(w / キラー・カール・クラップ) NWA南部タッグ王座(ミッドアトランティック版):1回(w / ワルドー・フォン・エリック) NWA北米ヘビー級王座(アマリロ版):4回 NWA USヘビー級王座(デトロイト版):3回 NWA USヘビー級王座(テキサス版):3回 NWA世界タッグ王座(テキサス版):2回(w / キラー・カール・コックス、デューク・ケオムカ) NWA世界6人タッグ王座(テキサス版):1回(w / ケビン&マイク・フォン・エリック) NWAテキサス・ヘビー級王座:3回 NWAアメリカン・ヘビー級王座:15回 NWAアメリカン・タッグ王座:6回(w / ワルドー・フォン・エリック、ビリー・レッド・ライオン、グリズリー・スミス、フレッド・カリー、ダン・ミラー、ディーン・ホー) WWE殿堂:2009年度(フォン・エリック・ファミリーとして受賞。プレゼンターはマイケル・ヘイズ) etc. エピソード [編集] 生まれついて掌が大きく握力も強靭で、その握力は一説には200kgを超えていたという。「アイアンクロー」誕生の逸話としては、街で刃物をもった暴漢と遭遇、とっさにその手をつかんだところ、相手は手首を骨折、失神してしまった…などの話がある(他の有力説としては、フットボール選手の頃にボールを握りしめたところ、それを破裂させたことがある経験から考案したというもの)。相手の顔面あるいは胃袋を握りつける、という単純明快な技で、一躍スターダムにのぼりつめる。その「鉄の爪」はルー・テーズのバックドロップなどとともに、20世紀のプロレスを代表する必殺技に数えられる。 また、そのアイアンクローで相手選手を出血させたり、自らも試合で出血する場合があり、常に「流血」のイメージがまとわりつくようにもなった。キック力にも優れ、ジャイアント馬場も「馬の蹴りのようだ」と表現したほど。引退の直前までヒール・スター選手であり続けた。 1975年7月に日大講堂で行われたジャイアント馬場との試合の際、場外で男にボールペンで刺される事故に合うが、平然としている様子が映像に残っている。 梶原一騎は、前記「刃物をもった暴漢と遭遇、とっさにその手をつかんだところ、相手は手首を骨折、失神したのがアイアン・クローの始まり」のほか数々のアイアンクロー伝説を『プロレススーパースター列伝』などで書いた。その中には、「アイアンクローを頭に食って脳波がおかしくなったレスラーは5人をこえる」というものまである。 エリックの経済的な成功についての前記の逸話は、『プロレススーパースター列伝』のブルーザー・ブロディ編で取り上げられた。これは1977年にプロレス雑誌で紹介された、当時若手レスラーとしてダラスに参戦していたロディ・パイパーの「エリックの車に乗り、エリックのアパートに住み、エリックのレストランで食べ、エリックのスーパーマーケットで買い、エリックの銀行からファイトマネーを受け取った」というコメントと、「ガソリンをエリックのスタンドで入れ、ファイトマネーの小切手の5%を現金化する際の手数料で払うため、収入の2/3はエリックの懐へ帰る仕組みとなっている」という悪徳マネージャーのゲーリー・ハートの言葉が引用されたものである。 脚注 [編集] ^ “Wrestler Profiles: Waldo Von Erich”. Online World of Wrestling. 2010年9月10日閲覧。 ^ “NWA American Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年9月10日閲覧。 ^ a b “Who's who in the Von Erich Family?”. About.com. 2010年9月10日閲覧。 ^ Catching up with Kevin Von Erich 外部リンク [編集] Von Erich.com - The official website of the Von Erich family Profile - Online World of Wrestling プロレス選手権変遷史: テキサス州東部 [隠す] 表・話・編・歴 WWE殿堂 1993年 アンドレ・ザ・ジャイアント 1994年 アーノルド・スコーラン | ボボ・ブラジル | バディ・ロジャース | チーフ・ジェイ・ストロンボー | フレッド・ブラッシー | ゴリラ・モンスーン | ジェームス・ダッドリー 1995年 アントニオ・ロッカ | アーニー・ラッド | ジョージ・スティール | イワン・プトスキー | ザ・ファビュラス・ムーラ | ザ・グラン・ウィザード | ペドロ・モラレス 1996年 ジミー・スヌーカ | ジョニー・ロッズ | キラー・コワルスキー | キャプテン・ルー・アルバーノ | バロン・マイケル・シクルナ | パット・パターソン | ザ・バリアント・ブラザーズ(ジミー・バリアント、ジョニー・バリアント) | ビンス・マクマホン・シニア 2004年 ビッグ・ジョン・スタッド | スーパースター・ビリー・グラハム | ボビー・ヒーナン | ドン・ムラコ | グレッグ・バレンタイン | ハーリー・レイス | ジェシー・ベンチュラ | ジャンクヤード・ドッグ | サージェント・スローター | ティト・サンタナ | ピート・ローズ 2005年 カウボーイ・ボブ・オートン | ハルク・ホーガン | ジ・アイアン・シーク | ジミー・ハート | ニコライ・ボルコフ | ポール・オーンドーフ | ロディ・パイパー 2006年 ザ・ブラックジャックス(ブラックジャック・マリガン、ブラックジャック・ランザ) | ブレット・ハート | エディ・ゲレロ | ジーン・オーカーランド | センセーショナル・シェリー | トニー・アトラス | バーン・ガニア | ウィリアム・ペリー 2007年 カート・ヘニング | ダスティ・ローデス | ジェリー・ローラー | ジム・ロス | ミスター・フジ | ニック・ボックウィンクル | ザ・シーク | ザ・ワイルド・サモアンズ(アファ・アノアイ、シカ・アノアイ) 2008年 ザ・ブリスコ・ブラザーズ(ジャック・ブリスコ、ジェリー・ブリスコ) | エディ・グラハム | ゴードン・ソリー | メイ・ヤング | ピーター・メイビア | リック・フレアー | ロッキー・ジョンソン 2009年 ビル・ワット | ハワード・フィンケル | ザ・ファンクス(ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク) | ココ・B・ウェア | リッキー・スティムボート | ストーン・コールド・スティーブ・オースチン | ザ・フォン・エリックス(フリッツ・フォン・エリック、ケビン・フォン・エリック、デビッド・フォン・エリック、ケリー・フォン・エリック、マイク・フォン・エリック、クリス・フォン・エリック) 2010年 アントニオ猪木 | テッド・デビアス | マッドドッグ・バション | ウェンディ・リヒター | ゴージャス・ジョージ | スチュ・ハート | ボブ・ユッカー |
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