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【2025/04/29 08:02 】 |
ハヤブサ (プロレスラー)
ハヤブサ(本名:江崎 英治(えざき えいじ)1968年11月29日 - )は、日本の元覆面レスラー(元FMW所属)、歌手。熊本県八代市出身。隼計画、チャレンジャーズ・プロダクション所属。
目次 [非表示]
1 人物
2 経歴
2.1 デビューから若手トップレスラーへの成長
2.2 全日本プロレス参戦
2.3 Hへの一時的な改名
2.4 頸椎損傷と歌手への転身
3 交友関係
4 リングネーム
5 得意技
6 タイトル履歴
7 関連項目
8 外部リンク
人物 [編集]

子供時代はいじめられっ子だったことを公表している。また、イラストが上手で、自身のマスクや衣装は勿論、FMWの選手バスのデザインを担当した。
日本ハムファイターズが札幌移転の前に始球式を務め、現在もファイターズのファンである。
経歴 [編集]

デビューから若手トップレスラーへの成長 [編集]
熊本商科大学(現:熊本学園大学)出身で、大学時代は「肥後ずいき」のリングネームで学生プロレスのリングに上がっていた。1991年に大学の同期の本田雅史(現:ミスター雁之助)と共にFMWの入団テストを受けて合格。同年5月5日、アミーゴ・ウルトラと組んでレイ・パンディータ&上野幸秀戦でデビュー。その後海外遠征に出発し、メキシコのプロレス団体WWAを中心に活動していたが、1994年一時帰国してジュニアヘビー級レスラーのオールスター戦「スーパーJカップ」に出場し、獣神サンダー・ライガーと対戦、関係者、ファン、ライガーからその素質を絶賛され、トップレスラーへの足がかりをつかむ。
1995年5月5日、FMW川崎球場大会において大仁田厚の引退試合の相手を務め、電流爆破マッチに初挑戦。その後は「新生FMW」のエースとして団体を引っ張る立場となった。同年6月、大矢剛功とのタイトルマッチに勝利し、大仁田由来のベルト・世界ブラスナックル王座を奪取するも、すぐに返上。FMWのトップ選手を集めたリーグ戦「グランドスラム」では、決勝戦に進出するも、ザ・グラジエーターに敗れ、準優勝となった。
1996年には肘がパンクしてしまい、手術のため長期離脱となるが選手不足のため短期間で強行復帰せざるを得なかった。、5月の川崎球場には田中正人と組んでメインイベントに登場。テリー・ファンク&ミスター・ポーゴ組に敗れる。その後は、傷心のため失踪というアングルを取って、8月末までリハビリのために欠場。汐留で行われた復帰戦の相手を務めたのは、今なお行動を共にする盟友の中川浩二(現:GOEMON)であった。10月、みちのくプロレスの両国大会に参戦し、新崎人生に敗れる。12月の駒沢大会では、みちのくプロレスのザ・グレート・サスケと対戦し、勝利。しかし、この大会で大仁田が現役復帰し、FMWはハヤブサを盛り立てていこうとする社長・荒井昌一と、自らが目立ちたい大仁田の、二つの方向性に割れていくこととなった。
全日本プロレス参戦 [編集]
1997年2月、全日本プロレスの小橋健太に挑戦を表明。それを受けてハヤブサの師匠格である大仁田厚がジャイアント馬場に直談判した。川田利明の反対もあったが(川田は1997年2月の週刊プロレスのインタビューにおいて「馬場社長には大仁田さんに関わってほしくないんだよね…」と語っていた)、馬場はかつての愛弟子である大仁田の頼みを邪険に扱うことなく、ハヤブサの全日参戦を承諾した(大仁田から直談判を受けた際、馬場は大仁田に「欲しいものがあったら言え」とだけ伝えたという)。そしてハヤブサは馬場同席で全日参戦発表の記者会見まで馬場のお膝元であるキャピトル東急ホテルで開かれるという高待遇を受けた(1997年3月3日)。 「'97チャンピオン・カーニバル」より全日にスポット参戦。 全日本マットで新崎人生とタッグを結成し、小橋&志賀賢太郎組に勝利。FMWの川崎球場大会では、小橋&マウナケア・モスマン(現:太陽ケア)組と戦い、自らが小橋のラリアットに敗れた。年末には、新崎人生とともに全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に参戦。強い格付け意識を押し出した当時のメジャー団体の中で、戦績は2勝7敗と振るわなかったが、多くの好勝負を展開。この年はFMWと全日本プロレスをまたにかけた活躍が評価され、年末のプロレス大賞で殊勲賞を受賞。
1998年4月には、ミスター雁之助からFMW二冠統一王座を奪取し、10月には格闘探偵団バトラーツの池田大輔とのタッグで冬木弘道&金村ゆきひろ組からブラスナックルタッグ王座を奪取。しかし、11月に冬木に敗れ、FMW二冠統一王座を失った。海外では、新崎人生とともにECWに参戦。当時ロブ・ヴァン・ダム&サブゥー組が保持したECWタッグ王座に挑戦した。
1999年2月、全日本プロレスに参戦し、新崎人生とのタッグでアジア・タッグ王座を奪取。その後、FMWマットで田中&黒田哲広相手にアジア・タッグ防衛戦が行われた。
Hへの一時的な改名 [編集]
同年6月に当時のFMWコミッショナー冬木弘道からマスク剥奪勧告を受け、素顔に戻りH(エイチ)と名乗り活動する。これは飛び技を主体とするファイトスタイルにより、着地の衝撃を支え続けた江崎の膝が限界に達していたと言う事情もあったらしい。11月に横浜アリーナで行われたFMW10周年記念興行では、2代目ハヤブサを名乗る覆面レスラー(正体は雁之助)と戦い、フェニックススプラッシュでこれに勝利。
2000年からは再びハヤブサに戻る。ハリウッドで製作されたプロレス映画「Backyard Dogs」に、本人役で出演するために渡米。WAR後楽園大会では、ミスター・プロレスとも呼ばれる天龍源一郎と対決、これに敗れた。11月には腕の再手術を決意、2度目の長期欠場に入る。
2001年には田口トモロヲ主演の映画「Mask de 41」にレッド・ファルコン役で出演するも、その後に起きた本人と団体のトラブルで、映画が公開されたのは2004年のことだった。
頸椎損傷と歌手への転身 [編集]
2001年5月の川崎球場大会で、欠場から復帰。ザ・グレート・サスケとタッグを結成し、雁之助&黒田に勝利する。10月22日、試合中のアクシデント(ラ・ブファドーラの失敗)により頸椎を損傷し全身不随の重傷を負ったが、懸命のリハビリにより奇跡的に自力で立ち上がるまでに回復した。
2002年8月、WMF旗揚げにあたりコミッショナーに就任するが、その後離脱し個人事務所「隼計画」を設立。現在GOEMONと共に所属する。現在も歩行が困難な状況にあるが、「お楽しみはこれからだ!」と宣言、あくまでもカムバックを目指す。
2004年には、2館のみで上映の映画「倍音―ばいおん―」にも出演。歌手のみのや雅彦、GOEMONとTRIPLE FIGHTというトリオを結成し、歌手としてライブハウスやプロレス会場で活動する。
2006年からは舞台俳優としての活動も始め、市川博樹主演の「天野真一物語」「飛行機雲」などに出演。
交友関係 [編集]

全日本プロレスへの本格参戦前から、三沢光晴とは親交が深かった。これは三沢がプロレスリング・ノアを旗揚げしてからも変わらず、三沢がリング上での事故(頸随離断)により他界した際は、自身が頸椎損傷からのリハビリテーションで苦しんでいたこともあり、相当にショックを受けていた。
また、タレントの博多大吉は親友である。大吉は福岡吉本を代表するプロレス好きであり、番組共演もあって知り合った。頸椎損傷の後、2002年に福岡の番組に大吉には内緒で出演。車椅子に乗って出てきた時点で大吉は、本番中にもかかわらず号泣してしまい、それを見たハヤブサは「ねぇ大ちゃん、挨拶ぐらいしようよ」と、笑いながら明るく話しかけたほどの間柄である。
他、芸能関係では滝沢秀明とは現在も連絡を取り合っているという(元々、滝沢がハヤブサの大ファンでテレビ番組で共演したのがきっかけだそうである)。
リングネーム [編集]

現在、過去に用いたことがあるリングネーム
江崎英治
ハヤブサ
H(エイチ)
ダークサイド・ハヤブサ
得意技 [編集]

ヘビー級時にも数々の高難易度な飛び技を使いこなし、俗にいわれるインディー団体出身選手らしくデスマッチもこなす希有な存在であった。
ファイアーバード・スプラッシュ
いわゆる450°スプラッシュ。リング内を向いてトップロープに立ち、そこから前方に宙返りしながら寝ている相手をプレスする技。
フェニックス・スプラッシュ
リング外を向いた状態でトップロープに立ち、そこから半ひねりを加えながらのファイヤーバード・スプラッシュ。非常に難易度の高い飛び技である。初代タイガーマスクが考案、獣神サンダー・ライガーが公開、ハヤブサが実戦向けの技に昇華させ、現在では多くのジュニア戦士達に引き継がれている。
ラ・ケブラーダ
ラ・ブファドーラ
ダウンしている相手に対してプレスする型を使用。
下記ラ・ブファドーラ式アトミコに続き、たたみ掛ける意味で連続で使用することが多かった。
ラ・ブファドーラ式アトミコ
ダウンしている相手にラ・ブファドーラの途中で体に捻りを入れてトペ・アトミコの要領で落ちていく飛び技。
トペ・コン・ヒーロ
トップロープを飛び越えて放つ前宙から背面を相手にぶつける技。試合中盤によく見られるほか、入場直後にガウンを着たまま場外へ飛ぶこともある。
対角線トペ・コンヒーロ
リングの対角線を走って、場外にトペ・コンヒーロを見舞う。
ファルコン・アロー
ブレーンバスターの要領で相手を抱え上げ、振り向いて正面に向かい合うような形になり、そこから開脚ボムの要領で背中から落とす技。相手を持ち上げつつ反転させて、正面に向かい合うような形になって仕掛けることもあった。現在この技の使い手は多いが、元祖は江崎である。友人関係にある金本浩二も使用している。
大一番や強敵相手には垂直落下式や旋回式も時折見せていた。
Hエッジ
相手の脇下にもぐりこんで、相手の体を持ち上げ、叩きつける。ザ・ロックのロック・ボトムと同じ要領だが、タイツを掴んで持ち上げる点や、持ち上げた後に旋回して叩き付けることもあった点が異なる。H時代に払い腰をヒントに編み出された。
Hサンダー
ボディスラムの要領で持ち上げて自分の右サイドに頭から垂直に落とす技。
三沢光晴のエメラルド・フロウジョンと似ているが、右腕で相手の股下を、左腕で相手の胴をクラッチしている点が異なる。
フェニックスドライバー
相手をボディスラムのように持ち上げて持ち方を変えてサイドに落とす。三沢光晴の原型エメラルド・フロウジョンと同型。
素顔のHからハヤブサに戻った頃から使用し始める。
ドラゴン・スープレックス
投げっぱなし式も使用。
タイガー・スープレックス
上記同様、こちらも投げっぱなし式も使用していた。クラッチは三沢式。
タイガー・ドライバー
いわゆる三沢光晴バージョンのタイガー・ドライバー。冬木や雁之助相手には'91式(※FMW的には“くどめドライバー”)を使用する。
フライング・ニールキック
ダイビング式やスワンダイブ式も時折使用していた。
スクリュー・ハイキック
アッパー掌底
 ファルコンアローに入る前に使用するほか、エプロンでの攻防の最中や場外乱闘の最中など、試合の流れを自分の方向に変える際に使用することが多い。
タイトル履歴 [編集]

FMW二冠統一王座 (世界ブラスナックル、インディペンデントワールド・ヘビー)
アジア・タッグ
WEWタッグ
フロリダ・ヘビー
PCWFヘビー
FWAライトヘビー
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【2010/12/31 01:13 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
はやて (プロレスラー)
はやては、日本のプロレスラー。覆面レスラーとして活躍している。 東京~八戸間を結ぶ新幹線はやてをモチーフにしている。
正体はみちのくプロレスに所属していた西田ヒデキと思われる。
経歴 [編集]

西田ヒデキ(西田秀樹)は大学卒業後サラリーマンをしていた(本人のブログによれば某文具メーカーの営業マンをしていたとのこと)が、プロレスラーになるため退職し、メキシコに渡った。
旗揚げ時のみちのくプロレスに練習生として帯同。FULL(西田珍念)から再びメキシコへ渡り、EMLL、ローカルプロモーションを転戦した。
帰国後、CMLL.JAPAN(ザ・オコノミマン)、大阪プロレス(ザ・モンキーマジック)を経てみちのくプロレスに西田秀樹として参戦していたが、マスクマン はやてとして登場、こまち、やまびこと新幹線トリオとして活躍。
その後、みちのくを退団。ディック東郷設立のプロレス道場SUPER CREWの講師として所属し練習生を鍛える。
はやて自主興行ではメキシコの覆面レスラーを呼び、本格的なルチャリブレ興行として盛り上がる。
SUPER CREW解散に伴い卒業生と練習生の活動支援をしていくため「はやてレスリングプロダクション」を設立した。
関連人物 [編集]

WRESTLING DREAMERS
守部宣孝
中里哲弥
勝見尚宏
松本直己
清水裕介
佐藤智也
広瀬隆
平原和幸
永利耕一
櫻井大介
住吉久仁夫
浜谷清志
ニード手島
【2010/12/31 01:13 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
畠中浩旭
畠中 浩旭(はたなか ひろあき、1969年1月15日 - )は、北海道出身のプロレスラー。本名およびデビュー当時のリングネームは畠中浩(はたなか ひろし)。
経歴 [編集]

大木金太郎に憧れ、レスラーになる。14歳の頃から、自己流トレーニングを開始。韓国の大木金太郎に直談判を決行するが会うことができず帰国。韓国が駄目ならと、片道切符と1000ドルを握り締め、メキシコへ。しかしながら、何千人のルチャドールのいるメキシコでいきなり試合をするのは難しく断念。それからも、レスラーデビューをしようと何度も海外へ渡ろうとした。苦労の末、最終的に、プエルトリコに渡り、ついに1990年3月、待望のプロレスデビューを飾ることとなった。
SWSの旗揚げに伴い、ケンドー・ナガサキに誘われて入団、道場「檄」に所属。SWS崩壊後はNOW、東京プロレス、道産子プロレス道場元気と所属団体を移った後、再びプエルトリコに渡リ、顔を真っ白に塗ったペイントレスラー、グレート・センセイとして活躍。その後、日本の様々なインディー団体に登場。
1998年9月13日、レフェリーのクレイン中條(現:北都プロレス)とともに「アジアン・スポーツ・プロモーション」を旗揚げ。現在も代表として、地元北海道を中心にプロフェッショナルレスリングを展開している。
その他、韓国でフリーで参戦している。
【2010/12/31 01:12 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
気仙沼二郎
気仙 沼二郎(けせん ぬまじろう、1972年4月24日 - )は、日本の男性プロレスラー。宮城県気仙沼市出身。宮城県気仙沼高等学校卒。みちのくプロレス所属、レスラー兼取締役営業部長。過去に名乗ったヨネ原人のリングネームでも知られている。
目次 [非表示]
1 来歴
2 リングネーム
3 得意技
4 その他
5 外部リンク
来歴 [編集]

みちのくプロレスの旗揚げメンバーのひとりで、1992年のみちのくプロレスプレ旗揚げ戦で、「米河彰大(よねかわ あきひろ)」のリングネームでデビュー。その後リングネームをヨネ原人としてからブレイクした。
「クワッパ!」の雄叫びとビーフ・ウェリントンとの試合は名物となり、L字台車に乗せられ引き回されたあげく壁に激突させられ、そのまま両者リングアウト(回数は3桁を超える)というのがお決まりの展開だった。宮古市での試合後行方不明となり、そのまま太平洋を泳いでメキシコにたどり着いたこともある(当然だが実際は単なるメキシコ遠征)。なお、「メキシコに滞在したことでスペイン語を少し修得した」という設定がつけられ、それまで行っていなかったインタビュー等もスペイン語で答えるようになる。さらには「日本語も少し修得」し、西和辞典を片手に日本語とスペイン語を混ぜてコメントするようになる。その際は身をスーツにまとった「スーパーヨネ現代人」となる。
頭部の負傷により1度引退した後、カムバックしつぼ原人との原人コントラ原人(最後はジャンケン勝負)で敗れ再び姿を消したが、ギミックを変え、デビュー曲「海の魂」をひっさげて演歌歌手として、現在のリングネーム「気仙 沼二郎」でカムバックした。
カムバック後は「みちのくプロレス若草杯」優勝をはじめ、ザ・グレート・サスケ、新崎人生とのトリオで出場した「みちのくトリオリーグ」の優勝など徐々に実力を発揮。その後、南野たけし、マンゴー福田、パイナップル華井と「気仙沼二郎とロス・サルセロス・ハポネセス」というユニットを結成。連戦連勝を続ける。
2005年7月9日青森産業会館興行で、気仙沼二郎と同じく入場時に歌を歌う佐藤秀、佐藤恵の「セーラーボーイズ」との、負けた方が入場時に歌を歌うのを禁止される「歌コントラ歌」というコントラ・マッチを行い勝利。歌を歌いながらの入場を維持している。
2005年12月9日に行われた、インディー7団体が参加した週刊ゴング主催のインディーサミットでは、スペル・デルフィン、新崎人生、TAKAみちのく対関本大介、柿本大地、火野裕士組の試合に、ヨネ原人のギミックを一夜限り復活させて愚乱・浪花とともに登場。1994年以来約11年ぶりのデルフィン軍団集結を演出した。
さらに翌年のインディーサミットでは、佐々木貴、アブドーラ小林と組み、葛西純、"黒天使"沼澤邪鬼、シャドウWXとの蛍光灯6人タッグデスマッチにエントリー。血まみれ姿になりながらも、途中からはコスチュームを脱いでふんどし姿になって奮闘。試合には敗れてしまったものの、最後は「海の魂」を血まみれのまま熱唱して締めた。
リングネーム [編集]

米川が現在、過去に名乗ったことがあるリングネーム
米河彰大
トイレの花子さん
プールのカッパ
ヨネ原人
スーパーヨネ現代人
気仙 沼二郎(現在も使用中)
得意技 [編集]

気仙沼落とし
いわゆるキン肉バスター。技に行く前に「気仙沼ー!落としー!」と見得を切る。ヨネ原人時代においても、シリアスな試合では『ラ・マティマティカ』として必殺技としている。
銀鱗
シャイニング・ウィザードと同型の技。
インディアンデスロック
技をかけた後に「海の魂」の締めの部分である「よーいとこらさ、よーいとこらさ、よーいとこらさっさ」を振り付けで歌う。
ヒップアタック
フカヒレ折り
片腕を取ってのコブラツイスト。
その他 [編集]

リング外では、入団時から一貫して営業の仕事をしており、現在も営業部所属。地元のラジオ番組等でみちプロのスポークスマンを勤めることも多い。
2004年4月から岩手めんこいテレビで(毎週金曜日深夜26:05 - )放送中のガチャダラポンTVに気仙沼二郎名義で出演中。ガチャダラポンTVはWeb放送局としても番組が見られる。
2006年から、新潟県の風俗情報誌「新潟ナイトナビ」でコラム『新潟沼二郎ナビ』を連載中。
2007年には、テレビ朝日の金曜ナイトドラマ「スシ王子!」に審査員役として気仙沼二郎名義で出演。
【2010/12/28 19:46 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
大柳錦也
大柳 錦也(おおやなぎ きんや、男性、1976年4月27日 - )は、日本のプロレスラー。青森県青森市出身。みちのくプロレス所属。
略歴 [編集]

闘龍門6期生としてメキシコに渡り、T2Pに編入され2000年9月2日アレナ・ナウカルパンにおける岩佐卓典(現:岩佐拓)戦でデビュー。当初は敗残兵ギミックの大柳二等兵として活動していたが、諸事情により受験生ギミックに修正され、リングネームも本名に改める。ギャグ要員として逆上陸興行ではTARUと抗争を繰り広げていたが怪我により欠場、T2P解散後はプロレスから遠ざかる。
実家の青森に戻り、土地家屋調査士の資格を取得する。
その後はレスラー復帰を目指し闘龍門でトレーニングを重ねていたが2005年、プロレスリング・エルドラドに受験生ギミックから時を経て就職浪人をしているというギミックで復帰。復帰後は黒のショートタイツという正当派スタイルで活動するが、2008年にはビリー・ブランクスのパロディであるビリー大柳に変身。その後、再び正統派に戻るもエルドラドが活動休止。
2009年にみちのくプロレスに練習生として入団し、3月14日に気仙沼二郎と組み、佐藤秀・佐藤恵兄弟を相手に再々デビュー戦を行う。翌3月15日、佐藤兄弟が持つ東北タッグ王座に沼二郎と組んで挑戦し奪取に成功、大柳にとって初戴冠となる。
現在も青森在住で試合のない日は土地家屋調査士の仕事を行っている。
他団体の青森興行に参戦している。
得意技 [編集]

延髄斬り
卍固め
各種丸め込み技
万歳三唱
二等兵・受験生ギミック時代のフィニッシュ・ホールド。仰向けダウンの相手にコーナー・サードロープの上から「合格(二等兵時代は大日本帝国)バンザ〜イ」と万歳しながら叫び、倒れ込むようにダイビング・ボディ・プレスを浴びせる。続けて、セカンドロープ、トップロープから同じ動作を計3回繰り返す。
敬礼
自分が敬礼のポーズをとりながら固める技と、相手を敬礼のポーズになるように固める技が存在する。
二等兵固め
受験生ギミック時代は関節技を極めながら参考書を読むなどのパフォーマンスが見られた。
タイトル [編集]

東北タッグ王座
【2010/12/28 19:45 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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